雁木坂上遺跡にみるすまいとくらし

96 ~ 99 / 323ページ
 雁木坂上遺跡は飯倉台地の東端近くに位置し、北東方向に突き出る舌状(ぜつじょう)台地の根元付近に立地する。東側足下は溜池の谷に向かう比較的大きな枝谷で、また北方には我善坊谷が横たわり、その上位の台地上にほぼ同時期の集落跡が存在する。
 調査地点はN地点とG地点の二か所に分かれ、前者では住居跡と考えられる竪穴建物跡一棟がほぼ完全な状態で発見され、後者では三棟の竪穴建物跡と、残存状態が悪く詳細は不明ながら一条の溝が検出されている。また、竪穴建物跡は台地東縁に列となって検出されているが、残念ながら西側の広がりは確認できていない。しかしながら、雁木坂上遺跡の西方に隣接する出羽米沢藩上杉家・豊後臼杵藩稲葉家屋敷跡遺跡(No.32)で少数ながらこの時期の土器が出土していることなどから、集落が広がっていた可能性はある。この雁木坂上遺跡N地点で、特徴的な炉をもつ一棟の竪穴建物跡が検出された(図4-2-2-3)。
 

図4-2-2-3 雁木坂上遺跡N地点検出の住居跡


 
 竪穴建物跡の規模は南北五メートル、東西四・七メートルで、隅丸方形を呈している。主柱穴は四本で、南西の壁の外に一本柱穴が掘られており、壁の下には幅一五~二〇センチ、深さ三~一〇センチの溝がほぼ一周する。床面は、壁下の溝周りは地のローム層であったが、内側はローム層を一〇センチほど粗く掘り込んだ上に貼り床をつくり平坦面を形成する。炉は、建物内の中央から北に寄った位置につくられ、径が九〇センチほどである。炉は床面を掘り込んでつくられていたが、南東端付近に幅三五センチ前後、厚み約一〇センチの粘土帯が橋状に掛けられ、これを天井とする二方向の空気孔と考えられる開口部がつくりだされている。炉の床や壁は高熱によって赤くただれていたが、とりわけ空気孔付近でもっとも強い火熱を受けていたことが確認された。遺物は、器種や形状が明瞭な九点の土器の他に、被熱した石製品と、鉄滓(てっし)と考えられた粒状の物質が出土している。
 この住居跡については、異形の炉と石製品や鉄滓状の物質から鍛治(かじ)工房的な機能をもっていたと考えられたが、結論は出ていない。
 弥生時代は金属器の使用が始まった時代である。金属には青銅と鉄があったが、いずれも朝鮮半島からもたらされたものである。関東地方では、後期になり青銅器や鉄器が用いられるようになるが、それまでは主に石器や木器が使われた。ただ港区域では、金属器はもとより、明らかに弥生時代の製品と特定できる石器も出土していない。
 ところで、N地点の南に位置するG地点で検出された三基の竪穴建物跡のうちの一基の炉から、成人の拳よりやや大きい、表面が脆くなっている礫(れき)が二個並んだ状態で出土した。いずれも熱を受けたものとみられ、おそらく炉の火力を上げるために置かれたものであろう。
 弥生時代の土器は、貯蔵用の壺形土器、煮炊きに用いられる甕形土器、物を盛る高坏(たかつき)形土器や鉢形土器が、原則としてセットで準備されたところに特徴がある。また、壺形土器や高坏形土器などは、しばしば美しく赤彩される。加えて、地域にもよるが、水差しなど器種が豊富になる点も、深鉢形土器と浅鉢形土器の組み合わせを基本とする縄文土器とは異なる。また、時代が降るにつれ無文化する傾向にあるが、南関東地方では後期後半の土器にも縄文などの文様が付けられることは少なくない。港区内の弥生時代遺跡は概して出土遺物が少ないが、雁木坂上遺跡N地点では壺形土器・広口壺形土器・小型甕形土器・台付甕形土器が出土しており、この時期の土器の組み合わせを知ることができる。ただし、台付甕形土器はすべて台部のみで器の部分を欠いている。いずれも脆弱で、ススの付着による黒変、あるいは器面に赤変を認めることができ、被熱していることが知れる。胴部より上の部位の資料はほとんどみられない(図4-2-2-4)。
 

図4-2-2-4 雁木坂上遺跡N地点検出住居跡の出土土器