中期後半の方形周溝墓が二基、伊皿子(いさらご)貝塚遺跡(No.60)で発見された(図4-2-2-5)。ともに縄文時代の貝層を掘り抜き、東西に並ぶように構築されていたが、全体の形状や規模を知ることはできていない。伊皿子貝塚遺跡の方形周溝墓は、溝が全周するのではなく、溝と溝の間にブリッジを残す構造のものと考えられる。第一号方形周溝墓は、北辺の溝の長さが一〇・七メートル、幅は中央付近で一・七メートル、東辺は長さ一一・六メートル、中央付近の幅は二・二メートルであった。第二号方形周溝墓は、北辺の溝の長さが検出部分で七・二メートル、幅は中央付近で一・六メートル、西辺は検出部分で長さ六・四メートル、中央付近の幅は一・八メートルであった。ともに二辺を欠くが、ほぼ同規模であったと考えられる。
第一号・第二号方形周溝墓ともに溝内から壺形土器が出土している。とくに、第一号方形周溝墓では四個体の壺形土器が出土している。うち二個体は溝底からやや上方で出土し、他の二個体は溝底直上で出土した(図4-2-2-6)。第二号方形周溝墓出土土器を含めて、これらの土器は宮ノ台式の壺形土器である。
また、第一号方形周溝墓ではその中央部分と想定される位置で人を埋葬した主体部と考えられる土坑が検出されたが、人骨や副葬品は発見されていない。
伊皿子貝塚遺跡地に方形周溝墓をつくった人びとの居住地は未だにわかっていない。しかしながら、伊皿子貝塚遺跡の南西に位置する亀塚公園遺跡や、東方にある三田台町遺跡で宮ノ台式期の土器片が出土しており、方形周溝墓をつくった人びとがこの辺りで集落を営んでいた可能性は高い。
同種の遺構は、麻布仲ノ町地区武家屋敷跡遺跡(No.134)でも検出されている。時期は、弥生時代後期後葉と考えられている。この遺構は、長辺が一〇・四メートル、短辺が七・六メートルの長方形を呈し、溝は全周する。中央から墓坑とみられる土坑は検出されていない。共伴(きょうはん)遺物は少なく、小型の壺形土器一点、胴部と口縁部の内面が赤彩された大型の壺形土器一点、赤彩された高坏形土器一点の他は小片ばかりであった。ひとまず方形周溝墓としたが、四周に溝をもつ建物跡の可能性も捨てきれない。
墓は、身分秩序や家族関係など社会の様子を反映し、方形周溝墓は地域の有力者とその家族の墓であると考えられている。しかし、港区域について、墓から社会の様子を知るには情報が少ない。
図4-2-2-5 伊皿子貝塚遺跡の貝層と方形周溝墓(上部が北)
図4-2-2-6 第1号方形周溝墓北溝の土器出土状態