弥生時代の後期後葉から終末期は、二世紀後半から三世紀半ばに概ね相応する。中国の史書『魏志倭人伝』に記されるように、列島では内乱が起こり、やがて西日本では邪馬台国のような複数の集団の広域連合体が生まれる。こうした社会変化の波は東海地方、中部地方や北陸地方を介して、後期半ば以降、急速に関東地方にも及ぶようになる。後期の遺跡出土土器群をみると、様々な地域に由来する土器群が同時期にやってきていることがわかる。港区域では中部高地系統の朝光寺原式土器が僅かな点数ではあるが出土し、麻布仲ノ町地区武家屋敷跡遺跡出土の赤彩された高坏形土器も中部高地系とみられている。港区域では、こうした地域から人びとが到来し、在来の人びとと影響し合うことで社会に変化が生じた。
後期前半、東京湾西岸では人びとの活動の痕跡がほとんどみられなくなること、後半になると一転して遺跡数が大幅に増加することは前項で述べた。大きな河川沿いに大規模集落が形成されるようになり、港区域でも飯倉台地や高輪台地に比較的大きな集落がつくられた。芝の微高地に居住空間を求めた人びとがいた可能性がある。飯倉台地や高輪台地にくらした人びとは、いずれも古川に注ぎ込む枝谷を後背地にもち、こうした谷間地で谷戸水田を営んだものと考えられる。遺物こそ出土していないが、すでに鉄器はある程度普及していたはずであるし、石器に頼っていた前代に比べて生産力はかなり上がっていたに違いない。また、高輪台地は足下に海を臨み、飯倉台地にくらした人びとは海を遠望することができたであろうから、河川交通・流通はもとより、東方に広がる海を舞台に、海を介した交通や流通に関与した人びとがあったことは容易に想像できよう。やがて、こうした河川交通・流通や海上交通・流通を差配できる有力者が誕生し、ヤマト政権と深い関係をもち得る地方豪族として成長した可能性もある。