古代港区域の概況

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 港区の位置する地域は、白鳳以前の古代には、吾妻(あづま)あるいは東国(あづまのくに)と呼ばれていた。吾妻は箱根足柄以東の地域の一部であり、現在の東京二三区を含む関東地方全体を含む広い地域を指す名称であった。昌泰二年(八九九)に足柄の関と碓氷の関が置かれて以後は、関東と呼ばれるようになった。
 弥生時代に続く古墳時代の港区域は、芝公園内に所在する丸山古墳が都内有数の規模の古墳として知られ、三田の亀塚など区内にはいくつもの古墳の存在が確認されており、古墳時代には港区域を支配する有力豪族が存在していたことは疑う余地がないが、出土遺物のみから被葬者の特定を行って事績を明らかにすることは難しい。
 第一章第一節第二項で述べるように、律令制以前の港区域には、『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』(国造本紀(こくぞうほんぎ))に无邪志国造(むざしのくにのみやつこ)と胸刺(むなさし)国造が併記されているが、その名称の由来や解釈には諸説ある。知々夫(ちちぶ)国造をあわせて三者別個の国造とみて、无邪志国造は胸刺国造に統合されたとみる見解(『新編武蔵風土記稿』)と、両者を表記が異なるだけの同じものとみる重複説(『姓氏家系大辞典』)がある。
 いずれにしても、白鳳以前の吾妻の国には、无邪志と知々夫の二地域に国造が置かれ、やがて知々夫(秩父)が无邪志(武蔵)に統合されていったことは間違いない。