大化改新後の国郡編成

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 大化改新から武蔵国設置に至るまでの経緯などは第二章で詳述しており、ここでは概略のみ述べる。
 大化元年(六四五)六月の乙巳(いっし)の変直後の八月には、朝廷は東国に国司を派遣している。これは、後の律令体制下の国司とは異なり、大化前代に諸地域の国造の上に臨時に派遣された「ミコトモチ」と称される臨時の巡察官であり、国造の監督と造籍、校田(こうでん)など新体制への準備を行っている。大化改新の大綱は、翌大化二年正月に発せられた大化改新詔(たいかのかいしんのみことのり)主文四箇条に示されているが、武蔵国の設置については、『日本書紀』では天武十二年(六八三)から十四年にかけて諸国の境界を定める記事があり、『常陸国風土記』ではさらに遡り、孝徳天皇の時代(六四五~六五四)としているが、史料的制約から現時点での設置の年の確定は難しい。武蔵の語は、承平年間(九三一~九三八)編さんという源順(したごう)の『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』には、「牟佐之(むさし)」と記載されるが、『古事記伝』の伝える賀茂真淵の説では「相模武蔵も一つにて、牟佐なるを、上下に分て、牟佐上牟佐下と云、その上は牟を略き、下は毛を略けるなり」とある。
 当時、都からの街道で都に近い国を上、遠い国を下として「ふさ」の国は三浦半島の走水(はしりみず)から海路をわたる上の国を上総、北上して下の国を下総とし、「けぬ」の国は「かみつけぬくに」が上野、「しもつけぬくに」が下野としているが、あわせて留意すべき説といえるだろう。
 第二章第二節で触れているが、『延喜式』には、武蔵国は大国(たいこく)・上国(じょうこく)・中国(ちゅうごく)・下国(げこく)の四ランクの最高位である大国として、久良(くらき)・都筑(つづき)・多麻・橘樹(たちはな)・荏原(えばら)・豊嶋(としま)・足立・新座(にいくら)・入間・高麗(こま)・比企・横見・埼玉・大里・男衾(おぶすま)・幡羅(はら)・榛澤(はんざわ)・那珂(なか)・児玉・賀美(かみ)・秩父の二一郡が設定されている。
 しかしながら、武蔵国が設置されたと同時に二一郡が同時に設置されたわけではなく、高麗郡は霊亀二年(七一六)、新羅(新座)郡は、天平宝字二年(七五八)に新たに設置されたので、創設期の武蔵国はそれ以外の一九郡だったと推定されている。現在の東京二三区は、ほぼ豊島郡と荏原郡に該当しているが、さらに律令制下では、行政単位として郡の下に里を置いている。里は後に郷と改称され、郷をさらに分割したものを里と呼ぶこととしたが、これを「郷里制」という(第二章第二節第二項参照。里は後に廃止される)。港区の地名がみられるのは、荏原郡の御田郷(上高輪、下高輪、北品川、大崎、高輪台、今里、白金、白金台、長峰、谷山、小山)と桜田郷(芝、麻布、麹町、四谷、赤坂、青山、飯倉、原宿、今井、隠田(おんでん)、千駄谷)である。