ヤマト政権の勢力が及んだ地域には、一般に最初は部民(べみん)制が、次いで屯倉(みやけ)制が、最後に領域支配方式に近いともみられる国造(こくぞう)制というべき地方支配方式が展開していった。ただし「国造」という地方豪族の地位自体は当初から存在したらしい。部民制や屯倉制の管理は国造の存在と深く関わる。それらを前提に、律令制下の地方支配方式である国司制度の萌芽ともいうべき国造制が地方に及ぶこととなった。
記紀には、ヤマト政権による東方遠征の伝承が種々述べられているが、それをそのまま史実として認めることは困難である。ただしその記述の背景には、何らかの政治的動向があった可能性があり、他の様々な史資料などとあわせて、当時の状況を推測していかなければならない。