部民のなかには、五・六世紀ごろの天皇・后妃・皇子らの名号または宮号を冠したと推測される一群の部の集団が存在する。後に詳しく触れるが、たとえば白髪部(しらかべ)は白髪皇子、すなわち清寧天皇の名を冠し、刑部(おさかべ)は忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)、すなわち允恭(いんぎょう)天皇の皇后の名を冠している。こうした「名代(なしろ)」は正しくは「御名代(みなしろ)の部」であるが、一方で「子代(こしろ)」については、具体的に説明した史料があまりなく、諸説あるものの、詳細不明とするのが穏当なところのようである。
文献にみえる名代の名称は、五~六世紀の歴代天皇の名号あるいは宮号のほとんど全部を網羅していて、それに后妃・皇子のものを加えれば、おそらく三〇種あるいはそれ以上存在したと推測され、全国的に展開していたことが知られる。まさにヤマト王権の地方支配の要であり、天皇や皇族の名号・宮号をそこに付したのは、その名を後世に伝えるためだったといわれている。
港区域を含む武蔵国について、記された時代は七世紀以後に下ってしまうが、古く名代に由来する可能性のある氏姓を持つ人々を、いくつかの史料中に見出すことができる。
早くヤマト政権が東方に進出し始めた四世紀末から五世紀初頭に設置された可能性があるのが、宇遅(治)部(武蔵国分寺瓦銘)・矢田部(『続日本紀』宝亀三年〈七七二〉十二月壬子条)で、前者は『古事記』に応神天皇の太子としてみえる(後に自殺)宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)(『日本書紀』では道稚郎子皇子(道稚郎子皇子))、後者は同じく応神天皇の子で後に仁徳の妃となる矢田皇女(『日本書紀』。『古事記』では八田若郎女(やたのわきいらつめ))の名に由来する名代であろう。武蔵国分寺瓦は八世紀のものであるが、宇遅(治)部は武蔵国豊島(としま)郡・那珂郡にみえ、矢田部は入間郡にみえる。四世紀末から五世紀初頭に設置されたのが確実であれば、古墳文化の東進と関係することになり、ヤマト政権とこの地域とのつながりを考えるうえで興味深い。
また、平城宮跡や平城京内で発掘された木簡のなかには、「矢作部(やはぎべ)」(城二九-三七上〈四四九〉)、「委文部(しとりべ)」(平城宮七-一一二九一)といった部民由来の姓を持つものがいる。前者は「高生郷(たけふのごう)」とあるので横見郡、後者は「大井里」(後の大井郷)とあるので、久良(くらき)郡か児玉郡(いずれにも大井郷が存在する)に関わる人物である。いずれも『日本書紀』垂仁天皇三十九年十月条にみえ、石上(いそのかみ)神宮の神宝を管理する五十瓊敷(いにしき)皇子に賜った一〇の品部の内である。なおこの条では神矢作部とあるが、早く『日本書紀』綏靖(すいぜい)天皇即位前紀に「矢(作)部」とあり、矢を作る部民として存在していたという。委文部は、倭文部とも書かれるが、機織りに携わる部民のことである。倭とは日本古来の織物を指し、その文様を織るので「倭文」と書くという。
続いて五世紀に設置されたと目されるのが、刑部・藤原部・日下部(くさかべ)・白髪部といった名代である。すでに触れたように、刑部は允恭天皇の皇后である忍坂大中姫に由来し、武蔵国分寺瓦では豊島郡に、また九世紀の史料であるが、『続日本後紀(しょくにほんこうき)』承和十三年(八四六)五月壬寅条にも、多磨郡の人として刑部がみえる。藤原部は允恭妃の衣通郎姫(そとおりのいらつめ)が藤原宮にいたときに設置された名代(『日本書紀』允恭十一年三月条)で、武蔵国分寺瓦銘にみえる(郡は未詳)。『万葉集』の防人歌(さきもりうた)のなかにも埼玉郡上丁としてみえている(巻二〇・四四二三番歌)。日下部は雄略后の草香幡梭姫(くさかのはたびひめ)の名代とされ、多麻(磨)郡(『日本霊異記』中巻第三)・横見郡にみえる(正倉院調庸布墨書銘)。白髪部は清寧天皇の名「白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)」に由来し、多磨(麻)郡(『日本霊異記』下巻第七)にみえる。
さらに、部民設置の第三段階にあたる六世紀初頭から七世紀初頭のものに、檜前舎人(ひのくまとねり)・椋椅(くらはし)部・壬生(みぶ)部がある。檜前舎人は、宣化天皇が都をおいた檜隈廬入野(ひのくまいほりの)(『日本書紀』宣化天皇元年正月条)の名に由来し、加美郡(『続日本後紀』承和七年十二月己巳条)・那珂郡(『万葉集』巻二〇・四四一三番歌)にみえる。また、平城宮内裏北方官衙地区で発掘された木簡に「檜前舎人倭麻呂」(平城宮一-八一)の名がみえる。この人物は、平城宮の門を警備する兵衛として勤務していた可能性があるが、やはり東国出身の可能性が高い。椋椅部は崇峻天皇の都である倉梯宮(『日本書紀』崇峻天皇即位前紀)、に由来し、橘樹(たちはな)郡(『万葉集』巻二〇・四四二〇番歌)・荏原(えばら)郡(『万葉集』巻二〇・四四一六番歌)・豊島郡(『万葉集』巻二〇・四四一七番歌、武蔵国分寺瓦銘)などにみえる。壬生部は『日本書紀』推古十五年(六〇七)二月庚辰条にみえるもので、それまでは皇族の名を冠していた名代が壬生部と総称されるようになっていく。豊島郡(武蔵国分寺瓦銘)・埼玉郡(『類聚三代格(るいじゅさんだいきゃく)』承和八年五月七日太政官符)などにもみえる。
以上のような時代ごとの名代の分布状況は、ヤマト政権による東国支配の変化を物語っている。古墳文化の変遷とも関わって、その具体的経過を教えてくれるのである。