国造と屯倉

120 ~ 122 / 323ページ
 ヤマト政権下の地方行政組織であるクニには、地方豪族が国造に任じられて支配した。後の武蔵国あたりの支配者として、武蔵国造が置かれた。『古事記』上巻では「天菩比命(あめのほひのみこと)之子、建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」を牟耶志(むざし)国造の祖とし、『日本書紀』神代上には「天穂日命(あめのほひのみこと)、此出雲臣・武蔵国造・土師連等遠祖也」とあって、いずれも武蔵国造はアメノホヒノミコトの子孫であるという。ちなみに『日本書紀』当該箇所では、天穂日命は、乱行を続けた素戔鳴尊(すさのおのみこと)が、姉である天照大神(あまてらすおおみかみ)への忠誠の証として、髻(もとどり)につけていた玉をかみ砕いて生んだ神の内の一柱である。
 一方『先代旧事本紀』一〇国造本紀には、全国の国造について記紀にはみえない独自の所伝が記されているので注目されるが、武蔵国関係では无邪志(むざし)(成務朝設置。『古事記』や、一次史料であるためその用字については第一級史料である飛鳥京・藤原京・藤原宮等で出土した木簡ではすべて「无耶志」とある)・胸刺(むなさし)・知々夫(ちちぶ)(崇神朝設置)の三国造を挙げている。これらのうち、知々夫国造は、秩父郡と荒川北岸の北武蔵を領域としたとされるが、无邪志国造と胸刺国造については、各々別の国造とする説と重複説とがある。文献史学的には、国造本紀における胸刺国造の記述が他の国造と比べて異質であり誤衍(ごえん)の可能性が高く、したがって同国異字とみるのが自然であるが、考古学的には前期古墳においては南武蔵が優勢で、後期古墳においては北武蔵が優勢であることを踏まえると、こうした地域差が反映して二つの国造が置かれたとみることもできるかもしれない(『新修港区史』では无邪志国造の領域は、北埼玉・足立・比企の埼玉県東南部および入間川とその支流域、胸刺国造の領域は、多摩川とその支流域、すなわち田園調布の亀甲山古墳を中心に考えられ、さらには芝公園の丸山古墳などのある港区地域もその領域内に考えることができようか、としている)。ただ同じく北武蔵に存在する知々夫国造との関係など、検討すべき課題が残されている。
 この武蔵国造の地位をめぐっては、『日本書紀』安閑元年(一応、五三四年に相当)閏十二月条に、武蔵国造の地位をめぐる内紛が、以下のように伝えられている。
 
  武蔵国造笠原直使(あたひおみ)主に対し、同族の小杵(おき)が上野国の有力豪族上毛野君小熊(かみつけぬのきみおぐま)に助けを求め、使主を殺して国造の地位を奪おうとした。それを察知した使主は、武蔵国を脱出してヤマト政権に訴えると、ヤマト政権は小杵を殺して使主を国造にしたという。使主はヤマト政権に対して怖れと喜びとが交錯するなかで、横渟(よこぬ)・橘花(たちはな)・多氷・倉樔(くらす)の四屯倉(みやけ)をヤマト王権に献上した。
 
 笠原直の名は、『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』郡郷部中の埼玉郡笠原郷(現在の鴻巣市笠原付近)という地名と関係するとみれば、この一族は後期古墳の中心である武蔵北部の勢力であったと推測できるという。この地は埼玉古墳群の南にあたり、したがって六世紀から七世紀前半にかけて、現在の埼玉県中・北部地域は北武蔵一円の政治勢力を統合する強力な豪族がいたらしい。右の『日本書紀』の記述は、こうした古墳にみえる政治勢力の状況と合致することから、ある程度の事実を反映しているものと考えられている。
 またこの記事にみえる四屯倉について『新修港区史』では、橘花が『和名類聚抄』郡郷部中の橘樹郡御宅(みやけ)郷(現在の横浜市日吉付近、鶴見川流域)、多氷が多末の誤りで後の多磨(摩)郡(多摩川流域)、または「おほひ」と訓(よ)んで久良 (岐)郡大井(現在の横浜市)か荏原(えばら)郡大井(現在の品川区。ただし、『和名類聚抄』荏原郡には「大井郷」は存在せず、「大井駅」が存在したらしい)、倉樔が倉樹の誤りで、久良(岐)郡(現在の横浜市、帷子(かたびら)川・大岡川流域)などとされる。なお『和名類聚抄』では久良郡は「くらき」と訓んでいるが、木簡類では「久良解郡」と読めそうなものがあり、また『吾妻鏡』中にも「海月郡」とあるから、「くらげぐん」という訓みが一般的だったかもしれない。
 これらは誅滅された小杵の旧領域であると考えられ、前期古墳の先進地として北武蔵に先行する多摩川以南の南武蔵地域、すなわち前述したようにこの地域を「胸刺」国造の領域とみることも可能とされていた。
 一方その後の武蔵国内の古墳研究の発展によって、これまで述べてきたような、南北武蔵の対立という見解に対して否定的な見方も出されている。小杵が使主と同じ笠原姓であるとすれば、その勢力が南武蔵にまで及んだというのは信じがたく、むしろ北武蔵内で比企と埼玉との対立関係で考えてみるべきだというのである。確かに古墳研究の現段階ではこちらの解釈に立つべきかもしれない。
 もっとも小杵が笠原姓であったという確証はなく、また小杵が上毛野君の援助を受けているわけであるが、古墳の展開状況からすれば、上野東部と南武蔵の有力豪族は、ほぼ時を同じくして没落ないし衰退過程にあったようで、やはり従来のような解釈でもストーリーは成り立つともいえるが。
 いずれにしろ、四屯倉の大半が南武蔵であることは間違いない。南武蔵が北武蔵の支配下に入っていたことは確実であろう。
 ただし四屯倉のうちの残りの一つ、横渟は横見の音訛(おんか)で、後の横見郡(現在の埼玉県比企郡吉見町付近)である可能性が高いが、もしそうだとすると、この屯倉だけが他の三屯倉とは飛び離れて北武蔵に存在することになる。この地は埼玉古墳群のある行田市の西に位置して、その東は野本将軍塚古墳のある東松山市に接していることから、この屯倉を、ヤマト政権が北武蔵の二大勢力の中間に、楔として打ち込んだものではないかとみる説もある。あるいは、そもそも『日本書紀』の安閑紀の屯倉一括設置記事は、『日本書紀』編さん時の造作であって、横渟屯倉の設置を推古朝まで下げる説も有力である。
 いずれにしろ、この武蔵国造一族の内紛の背景に、前期古墳文化から後期古墳文化への発展に伴う先進地域の移動、さらには政治勢力の消長交代をうかがうことができそうで、この内紛によって、結果として屯倉というヤマト政権の直轄地がおかれ、中央勢力の支配強化を生み出したことは間違いないであろう。   (小口雅史)