芝丸山古墳

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 芝丸山古墳は、明治三 十~三十一年(一八九七~一八九八)に坪井正五郎(しょうごろう)により発掘調査が行われ、昭和三十三年(一九五八)には明治大学考古学研究室による墳丘の測量調査が行われた。墳丘は後世の削平を受けているものの、明治大学の測量調査の結果から全長一一二メートル、後円部径六四メートル、前方部幅四〇メートルの規模と推定されている。坪井正五郎による調査では、後円部を発掘したものの主体部は発見されず、江戸時代の増上寺の造成に伴い破壊されたものと推定されている。
 芝丸山古墳の年代に関しては、前方部の幅が狭く、高さも後円部より低いことから、前期古墳の特徴を備えている一方、円筒・人物埴輪片の出土が報告されていることから、中期前半(五世紀前葉)とする考えもある。しかし、埴輪の出土に関しては後円部をはじめ攪乱(かくらん)を受けていることや、周辺に広がる円墳群からも埴輪片が出土していることから、芝丸山古墳に伴うものかは不明な点もある。また、墳丘の規模・形状からは、都内ではともに一〇〇メートル級の規模をもつ前方後円墳である、多摩川下流域の大田区宝来山古墳・亀甲山古墳と同じく南武蔵を代表する前期の首長墓と考えられ、前期後半(四世紀後半)に位置付けられる。そして、芝丸山古墳が東京湾や古川を見下ろす地に位置していることは、古墳の被葬者がこの地の海上・河川交通を掌握したことを背景に権勢を誇ったことを想像させる。
 なお、坪井正五郎は古墳発掘に先立つ明治二十六年九月に「芝公園内存在古墳保存ニ関スル意見書」を東京府知事・東京市参事会宛に提出し、古墳の重要性や今後の保存について述べており、遺跡の保存・公開に先駆的な業績を果たしたことも評価される。
 

図1-2-2-2 丸山古墳墳丘測量図

『東京都心部遺跡分布調査報告 都心部の遺跡-貝塚・古墳・江戸-』(東京都教育委員会、1985)から転載