円墳群

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 芝丸山古墳の西側に広がる一〇基以上の円墳群で、芝丸山古墳(前方後円墳)とともに芝丸山古墳群を形成する。明治三十一年に坪井正五郎により、丸山古墳と合わせて七基(一・四~九号墳)の発掘調査が行われ、さらに昭和三十三年にはホテル建設に伴い、明治大学考古学研究室による一号墳・四号墳の発掘調査が行われた。
 調査が行われた古墳の主体部(埋葬施設)はいずれも横穴式石室であり、坪井の報文(ほうぶん)からは両袖・片袖構造の両者があることが窺われ、六号墳の石室は半地下式構造と思われる。横穴式石室の石材には房州石と思われる「磯石(いそいし)」が使用され、石室内からは須恵器・土師器、武器類・馬具などの鉄製品、耳環(じかん)・玉類などの装身具類、人骨が出土している。また、墳丘からは円筒埴輪・形象埴輪(人物・器財)の出土が報告されており、このなかには東日本における当時最大級の埴輪工房であった、埼玉県鴻巣市の生出塚(おいねづか)埴輪窯跡群産の製品が含まれている。
 円墳群の年代については、後期後半(六世紀後葉~七世紀前葉)を中心とすると考えられ、前期後半の芝丸山古墳とは年代差が大きく、直接的な関係は見て取れない。なお、古墳群の年代、横穴式石室への「磯石」の利用、生出塚埴輪窯跡群産埴輪の出土は、荒川流域の北区赤羽台古墳群と類似した様相を示す。また、前期の大型前方後円墳に近接して後期の古墳群が営まれるあり方は、多摩川流域の大田区多摩川台古墳群と同様である。
 このほか、芝丸山古墳群の北側にやや離れて円墳が一基(No.26)、さらに谷を挟んで北西側に横穴墓一基(No.28)が存在するとされるが、これらの詳細は不明である。
 

表1-2-2-1 芝丸山古墳群一覧
( )は現存値を示す。