亀塚は、明治三十五年(一九〇二)に坪井正五郎による調査が行われて以来、古墳として認識されてきたが(円墳:径約三〇メートル)、埋葬施設や副葬品・埴輪などは検出されていなかった。昭和四十五・四十六年(一九七〇・一九七一)には慶應義塾大学による発掘調査が行われたが、古墳であることを決定づけるような成果は出なかった。しかし、弥生時代の遺物包含層の上に築造されていることと、盛土中から須恵器(すえき)・土師器(はじき)片が出土したことにより、「古墳である公算が大」と結論づけられた。
その後、亀塚公園の整備事業に伴う港区教育委員会による調査が、平成十五・十七・十八・十九年(二〇〇三・二〇〇五・二〇〇六・二〇〇七)の四次にわたり実施されたが、この調査においても埋葬施設・周濠などの施設は確認されず、副葬品・埴輪なども出土しなかった。ただし、墳頂部のトレンチでは埋葬施設の可能性がある土坑の存在が指摘されるとともに、西側のトレンチではローム層への掘り込みが確認され、周濠である可能性が指摘された。さらに、亀塚の直下から弥生時代の遺物包含層ならびに竪穴建物跡が検出されたこと、亀塚の盛土層内からは近世の遺物は出土していないこと、また盛土の築造方法に古墳との共通性が見られることから、「亀塚が古墳である可能性が従来に比べて増したとする見解を得るに至った」としている。
図1-2-3-1 亀塚墳丘測量図
『都指定史跡「亀塚」確認調査報告書』(2008)から一部改変のうえ、転載