大化改新

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 史上よく知られた大化元年(六四五)六月の乙巳(いっし)の変において、中大兄(なかのおおえ)皇子らは、皇極天皇の面前にて蘇我入鹿(いるか)を殺害し、次いで大臣蘇我蝦夷(えみし)を本宅にて自殺に追い込んで、クーデターを成功させる。新たに孝徳天皇が即位し、クーデターの首謀者中大兄皇子は皇太子となって実権を握った。翌大化二年正月元旦、新都(未完成ではあるが)難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)において、大化改新詔(たいかのかいしんのみことのり)が高らかに宣言された。その主文四箇条では、①公地公民制、②地方行政制度、③籍帳・班田収授法施行、④新税制の施行といった、後の律令国家建設への道筋の概略が示され、日本における古代国家形成の一大画期をなした。
 ただしもちろんそのすべてが直ちに実現したわけではない。律令国家が対外的にも一応の体裁を整えるのは、文武天皇の大宝元年(七〇一)、大宝律令施行まで待たなければならない。
 ここでヤマト王権から律令国家への転換という点でいえば、大化改新詔のうち、①、およびそれを踏まえた②がきわめて重要である。ヤマト政権の人民支配の基本であった、民衆を豪族が縦割りで支配するという間接的な民衆支配の体制は破棄され、中央政府が直接民衆を支配する体制への転換が目指された。国家が、擬制的な血縁原理による豪族の民衆支配から、領土を地域区分しその地域区分にしたがって民衆を支配することは支配体制の基本中の基本である。領域の単位としては、まず地方をクニ(国)に分け、クニをコホリ(評、後に郡。古い朝鮮語に由来するらしい)に分け、コホリをサト(里、後に郷)に分けることが目指された。これができて初めて、日本は「国家」を形成したといえるのである。