新政府は改新詔発布に先立つ大化元年八月、東国に国司を派遣し、戸籍の作成(造籍)、田地の調査(これを校田(こうでん)という)、武器の収公などを命じた。この段階では、まだ律令制下のような「国司」は存在していないので、「ミコトモチ」と呼ばれた使者の類であり、また東国の範囲には諸説あるが、東海道では三河以東、東山道では信濃以東と考えるのが有力である。
この東国国司の任務の第一に挙げられているのが造籍と校田であることが注目される。もちろん、この段階で戸籍を作成することは無理であって(全国統一的な日本最初の戸籍は、天智九年〈六七〇〉の庚午年籍(こうごねんじゃく)である)、在地豪族の力を借りながらの人口調査が基本であろう。とはいえ、後の地方編成の進展の仕方を踏まえると、律令制下の五〇戸を一里とする地方制度の基礎が作られつつあったらしい。この五〇戸一里制の進行の度合いによっては、それが部民(べみん)制を明確に否定するものであることから、中央政府による中央集権的地方民衆支配の成立を意味する可能性もあるが、このあたりは詳細不明である。
したがって同時に行われた校田も、この段階ではまだ律令制下の班田収授制に相当するようなものではなく、在地豪族の支配下の田地の実態を把握しようとしたものであろう。
次の任務の武器の収公については、これはやがて全国政策としても実施され、兵庫(つわものぐら)に武器を集めて国造(くにのみやつこ)に集中管理させようとしたものである。その背景には、東国が対蝦夷(えみし)作戦上の軍事的最前線であり、またよく知られているように大化改新自体が、大唐帝国の興隆を中心とした東アジアの国際的緊張関係のなかで生じたことがある。