こうした東国国司らの調査によって、大化改新詔第一条の公地公民制、第二条の地方行政制度の整備が進むこととなった。改新詔第二条にはクニの下にコホリを置くことがみえていて、『日本書紀』ではそのコホリという音に律令制下の用字である「郡」を宛てているが、正しくは当時「評」の字が宛てられていた。
これが事実であることは、『常陸国風土記』が東国における具体的な立評過程を記していることから明らかになっている。それによれば、孝徳朝の己酉年(六四九)に国造のクニが評となり(第一次全面立評)、同癸丑年(六五三)に評の分割・新置が行われ(第二次立評)、律令制下の郡に相当する評が成立したと考えられている。つまり、第一次の立評は旧来の国造を中央政府があらためて制度化したに過ぎないともいえるが、第二次の立評は、クニの内部での勢力争いなども踏まえて、国造以外の在地豪族も中央政府の支配の末端に位置づけられたとみられる。
律令国家の地方支配のベースが、現実には在地豪族の地方支配に依存していることはよく知られているが(これを学説的には在地首長制(ざいちしゅちょうせい)という)、こうした地方制度の整備によって、部民制が解体され、律令制下の公地公民制が形成されていくことになる。