東国国司派遣については、『日本書紀』に、やや遅れて類似の任務を帯びた「使者を諸国に遣わせた」とあることから、全国政策とみる見解も有力である。もちろん、大化改新も孝徳朝天下立評も間違いなく全国政策である。とはいえ、真っ先に東国においてこうした新政策が行われたことは重視すべきであろう。
後の歴史をみれば明らかなように、壬申の乱において天武天皇は「東国」を基盤に勝利したし、弘仁元年(八一〇)の平城太上天皇の変(薬子(くすこ)の変)においても平城上皇が「東国」を目指したことが知られている。律令国家において、「東人(あづまびと)」は勇敢なる武人として中央政府の軍事的基盤と考えられていた。
また、東国に真っ先に国司が派遣されたのは、東国の国造がクニの長であると同時に、皇室私有民である名代(なしろ)(・子代(こしろ))といった部民の統率者である伴造(とものみやつこ)も兼ねていたかららしい。東国では、国造が領域内の民衆を一元的に支配していたといわれている。
さらに、先に述べた武蔵国造笠原直使主(あたひおみ)が献上した四屯倉(みやけ)はそれぞれ広大な領域にわたっており、中央政府の直轄地になったというよりは、そこからの上納分を中央政府が受け取っていただけで、実際の支配は依然として旧来の国造が持っていた可能性がある。東国では、屯倉もまた国造によるヤマト王権への貢納―奉仕関係に包摂されていたとされている。
ちなみに、『続日本紀(しょくにほんぎ)』神護景雲二年(七六八)六月癸巳条にみえる、久良(くらき)郡で祥瑞である白雉(はくち)(ランクとしては中瑞)を捕らえた橘樹(たちはな)郡の人飛鳥部吉志五百国(あすかべのきしいほくに)が、かつて南武蔵に置かれた屯倉を管理するために現地に派遣された帰化人(渡来人)飛鳥部吉志の後裔であるという説もあるが、確たる根拠があるわけではない。
先にも述べたように、後の律令国家の地方支配が在地豪族に強く依存していたことからすれば、こうした傾向は全国的に共通するものであったろうが、とくに東国において顕著であったことが、東国国司が全国に先駆けてこの地に派遣された理由であったと考えられている。こうした国造たちのクニの評への再編成が律令国家の基礎を築いたのは、西国よりも東国の方が国造の力が強く、中央集権的な国家機構に取り込む改革が急がれたからでもあろう。