これまで触れてきたように、武蔵国は、かつては「无邪志」「无耶志」「牟射志」などと表記され、「むざし」と訓(よ)んだ可能性もあるが、一〇世紀前半に源順(したごう)が編さんした『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』では、「牟佐之」=「むさし」と清音に統一されていたらしい。
また、「武蔵」の用字は、『続日本紀』和銅六年(七一三)五月甲子条に、風土記編さんの命令と関連して、「畿内と七道との諸国の郡・郷の名は好き字を着けしむ」と規定されたことと関係する。この命令では郡・郷(正しくは、この段階ではまだ「里」である。「郷」と変更されるのは霊亀元年〈七一五〉のこと。詳しくは後述する)を対象としているが、古くは国・郡・里などの行政地名の表記は、文字数が一文字~四文字と不統一で、また用字にも幅があった。それを意味が美しい漢字二字で表記することに統一するのは、中国風の文化を導入しようとしていた当時の律令国家の基本方針といえよう。
その具体的変化の様相は、やはり先に触れた藤原宮跡や平城宮跡などからの木簡の出土によって、七世紀末から八世紀初めにかけての、当時実際に書かれていた文字が知られることによって明らかになった。木簡は、当時使用されていた用字を記した生の史料であって、それゆえそこから確実な根拠が得られるわけである。
それらによれば、国名については、すでに大宝以後から和銅六年ごろまで、二字嘉名表記への改訂が進んでいたのに対し、郡・里名については、まだまだ不統一であったので、その統一がこのとき図られたという。つまり「武蔵」という用字は和銅六年以前に確定していたはずである。ただし残念ながら「武蔵国」表記のある年紀が確かな木簡でもっとも古いものは霊亀三年十月のものであって(平城京一-六八)、和銅六年以前に遡ることができないのである。