すでに触れたように、律令制下の行政区画としては、郡の下に里が置かれたが、それは五〇戸をもって一里とする人為的な区分であった。これは徴税や徴兵の便宜を図るためで(戸数だけではなく、各戸内の徴税や徴兵対象者である成年男子の数まで調整できればとても便利であることは容易に想像されよう)、現実の自然村落とは一致しない。養老戸令2定郡条によれば、そこに含まれる里の数によって郡のランクが決まった。二〇~一六里で大郡、一五~一二里で上郡、一一里~八里で中郡、七~四里で下郡、三~二里で小郡と規定されている。
里は、「霊亀元年(七一五)式」により郷に改称された(『出雲国風土記』総記部分。訓ではどちらも「サト」である)、というのが長い間の通説であった。その郷をさらにいくつかに分割したものを里と称することとしたが、この新制を「郷里(ごうり)制」と呼ぶ。モデルとなった中国の地方行政制度に、より近づけた改正であるといわれている。
ただし近年の研究によれば、平城京左京二条二坊五坪東二坊坊間路西側溝で発見された和銅八年(=霊亀元年)年紀の計帳軸の木口に記載された「大神里」という記載から、郷里制の施行は霊亀三年まで下るとする説が有力である。
いずれにしても郷里制施行直後の「郷」は五〇戸からなる人為的な村落であるから、その郷がどこにあるのかを具体的に地図上で示すことはできない。しかしながら自ずと中心地は想定され、さらに律令制が崩壊していく過程で、戸籍に基づく厳密な人為区分は維持できなくなるから、郷にも自ずと領域が定まっていった。