御田郷の語源

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 御(美)田郷は、既述したように『和名類聚抄』では「三多」すなわち「みた」と訓(よ)ませている。高山寺本では「美田」、大東急記念文庫本では「御」としか書かれていないが、おそらく「御田」の略ないし誤写であろう。仮に「御田」が本来の用字で、かつ「みた」と訓まれたのであれば、これは大化前代の屯倉(みやけ)に遡る可能性もある。律令時代には養老田令36置官田条に皇室御料田として畿内に官田を置くことが規定されているが、大宝田令では「屯田」と表記され、かつ大宝令について実用的な解釈をすることで定評のある「古記」が、屯田を「御田」だとしているので、これが屯倉に由来するものである可能性が高い。古代においては、「御」は公的には天皇に対する敬意を表す接頭語であった。ただし、これは畿内に置かれたもので、関東とは無縁である。とはいえ、もう少し時代が下ると、「勅旨田(ちょくしでん)」といわれる天皇家が領有した開発地が出現し、それも「みた」と呼ばれることがあったので、荏原郡の「御田」がそうしたものと無関係だとはいいきれない。ただし、古くは「御田」ではなく「美田」であった可能性もあるので、皇室御料と結びつく可能性は低いように思う。
 『新編武蔵風土記稿』『日本地理志料』『東京市史稿』などが、屯倉、具体的には安閑朝の多氷屯倉に付属する御田とまで解しているが、『新修港区史』が述べているように、この解釈は難しいのではないか。御田を(一説では荏原郡薭田(ひえだ)神社の)神田とする説もあるが、先に触れたように、古代における「御」の公的用法からすればやはり難しいであろう。