御田郷は、既述した「小田原衆所領役帳」に「三田」(太田新六郎分など)とあり、『和名類聚抄』とは異なり現行の用字となっている。ただし桜田郷の場合と異なり、残念ながら郷域を具体的にうかがい知れる手掛かりはない。また、長禄年間(一四五七~一四六〇)の江戸図(写)には、「三田村」と「銀(しろがね)三田郷」がみえ、後者は白金の西にある目黒区三田だとされる。
『御府内備考』巻三九(御田 総説)では、
今三田と称する地域、東は大やう芝に隣り、たゞ南よりの方のみ少しく高輪に交わり、西は新川を境として麻布に並び(中略)、南は白金に続き、北は赤羽川に限れり。
と、近世の府内三田町の範囲を示しているが、それらをうけて『日本地理志料』は、港区南部から品川区北部と目黒区東南辺にわたる地域を想定している。 (小口雅史)