港区の奈良・平安時代遺跡

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 これまでに確認されている港区内の奈良・平安時代の遺跡は、小規模な集落跡が点在するほかは、遺構は伴わず遺物の出土のみが知られる遺跡がほとんどであるが、これには江戸時代以降の開発に伴って湮滅(いんめつ)した影響も大きいと思われる。これらの遺跡は、東京湾に面する武蔵野台地東端部を中心に、台地縁辺部を南北に細長く分布しているが、一部東京低地においても存在が確認されている。
 港区域北側の淀橋台では、近江山上藩稲垣家屋敷跡遺跡(No.133)で、奈良時代後半(八世紀後半)の竪穴建物跡一棟が検出されている。また、筑前福岡藩黒田家屋敷跡第二遺跡(No.95-2)では、平安時代中ごろ(九世紀後半~一〇世紀前半)の竪穴建物跡四棟・土坑一基が検出され、八王子市南多摩窯跡群産の須恵器(すえき)や土師器(はじき)のほか、鉄製U字形鋤(すき)・鍬先(くわさき)や土錘(どすい)・鉄製品(用途不明)などが出土している。このほか遺構に伴ってはいないものの、肥前佐賀藩鍋島家屋敷跡遺跡(No.180)では安山岩製紡錘車(ぼうすいしゃ)が出土し、台地内にやや奥まって位置する石見津和野藩亀井家屋敷跡遺跡(No.156)では瓦・土錘が出土し、九世紀前半の武蔵型甕を用いた火葬蔵骨器を埋納した土坑が検出されている。さらに、東京低地に立地する愛宕下(あたごした)遺跡(No.149)では瓦片が、奈良時代以降の貝塚とされる港区No.52遺跡では土錘が、それぞれ出土している。
 一方、南側の三田台では伊皿子(いさらご)貝塚遺跡(No.60)で、平安時代(九世紀中ごろ)の竪穴建物跡一棟が検出され、「万」の墨書をもつ土師器坏(つき)や、床面からは馬歯が出土している。さらに、土坑からは儀礼に伴って捧げられたと思われる、ウシの頭骨が見つかった(本章コラム参照)。また、港区No.123遺跡では、奈良時代前半(八世紀前葉)の竪穴建物跡一棟が検出されている。承教寺跡・承教寺門前町屋跡遺跡(No.145)では奈良時代前半(八世紀前葉)の竪穴建物跡一棟が検出され、耳環(じかん)が出土している。このほか、高輪台に位置する信濃飯山藩本多家屋敷跡遺跡(No.64)においても奈良時代の竪穴建物跡が四棟検出され、なかには一辺約七メートルの大型のものもあり、この建物跡からは滑石(かっせき)製紡錘車が出土している。
 出土例は僅かではあるものの、竪穴建物跡からの鉄製農具(U字形鋤・鍬先)・土錘・紡錘車の出土は、当時の人々の生業の一部(農業・漁業・紡績)を彷彿とさせる。また、伊皿子貝塚遺跡での馬歯やウシ頭骨の出土は、飼育などの具体的な状況は不明ながらも、集落内に当時は貴重であった牛馬がいたことを示唆するとともに、当時の儀礼や人々の信仰を知る手掛かりとなる。
 

図3-1-1 港区内奈良・平安時代遺跡および遺物出土地分布図(令和2年3月1日現在)
149愛宕下については包蔵地の範囲を示した。

表3-1-1 港区内奈良・平安時代遺跡および遺物出土地一覧

前頁の分布図・上記一覧表は、港区埋蔵文化財包蔵地(遺跡)分布図(令和2年3月1日現在)をもとに作成した。番号の前に※が付された遺跡は、奈良・平安時代の遺跡として認定されていないが、発掘調査において当該期の遺物が出土した地点である。