律令国家による七道制が施行されたときには、武蔵国は東山道に属していた。東山道は、碓氷(うすい)峠より上野国新田駅に入り、下野国足利駅に抜けるコースをとっていたが、この東山道本道と武蔵国府をつなぐために、上野国邑楽(おはらぎ)郡から曲がり、いったん南下して台地上を縦断、五つの駅を経て武蔵国府に到る、いわゆる東山道武蔵支路が設けられていた(『続日本紀(しょくにほんぎ)』宝亀二年〈七七一〉十月己卯条)。駅路を急ぐ使者は、この武蔵支路を往復しなければならなかったのである。とはいえ、武蔵国府の所在地は、この武蔵支路と多摩川の交点に近い交通路上の要衝でもあった。
この武蔵支路の具体的ルートについては、武蔵国府跡内(東京都府中市)・武蔵国分寺跡内(同国分寺市。僧寺と尼寺の間、僧寺の西の縁に沿って走っている)・東の上遺跡(埼玉県所沢市)・町東遺跡(同坂戸市)で、ほぼ直線的につながる多数の古代道路跡が検出されていることから、その実態がほぼ明らかとなっている。
一方、このころの東海道本道は、相摸国からまず上総国に入り、下総国を経て常陸国へ抜けていた。東京東部の低湿地帯を避け、三浦半島東端の走水(はしりみず)から船で房総半島西部に突き出した富津(ふっつ)に渡っていたのである。浦賀水道のもっとも距離の短いところをつないでいた。東海道はもう一か所、伊勢湾も船で海を越えており、まさに「海道」であった。古代の東京湾岸は、多摩川・荒川・江戸川・(旧)利根川などの河口が集まり大湿潤地帯を形成していて通過することができなかったのである。