八世紀後半になると、東京湾岸の総武国境地帯も海退によって乾燥化が進み、相摸国から武蔵国内を経て下総国に到る駅路が開発されていった。結果的に、京から東へ向かう東山道と東海道のルートがあらためて検討されることになる。
天平神護二年(七六六)に全国に派遣された巡察使等のうち、東海道に派遣された紀広名(きのひろな)の復命が『続日本紀』に記録されている(神護景雲二年〈七六八〉三月朔条)。それによれば、下総国井上(いかみ)・浮島・河曲(かわわ)三駅と武蔵国乗瀦・豊島(としま)二駅が、東山道と東海道の両路に関係しているため、そこを通過する(多数の)使者への応対に忙しく、中路なみに馬一〇疋を置くことを奏言し、そのまま許可されたという。それまでは小路なみの扱いで、各駅馬五疋の配置だったのであろう。
東海・東山両道は、先にも触れたようにもともと中路であって、各駅には馬一〇疋が置かれていたわけであるから、この段階で武蔵国乗瀦駅から下総国井上駅へ抜ける支道としてのルートがそれまでの東海道本道と同格になった、というよりは、むしろそれまでの東海道本道に代わる新しい東海道ルートとなったとみることができよう。なお、井上駅の所在地については、千葉県市川市の市営総合運動場遺跡、同市の下総国分寺跡から「井上」と記された墨書土器が出土しているので、現在の江戸川の東岸で下総国府に近接していた可能性が高い。
ところで、右にみた五駅が新たな東山道ルート上に位置するにもかかわらず、東山道に関わる使者もここを利用するので、その応対にも忙しいとされていることにも注目される。これは、対蝦夷政策との関係で、陸奥国へ向かう使者(場合によっては出羽国へも。本来は東山道本道ルートないし北陸道を利用すべきである)が、様々な事情でこの迂回ルートを利用したといった状況を示唆しているのであろう。
こうしたルートの存在は、『万葉集』に載せられた歌からも推測されている。
足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹はさやに見もかも
右の一首は、埼玉郡の上丁藤原部等母麻呂(ともまろ)(巻二〇・四四二三)
色深く背なが衣は染めましを御坂賜らばまさやかに見む
右の一首は、妻物部刀自売(もののべのとじめ)(同前・四四二四)
ここにみえるように、武蔵国埼玉郡の人が防人(さきもり)に赴く際に「御坂」=相摸国足柄峠を越えていることが知られるし、田口益人(たぐちのますひと)は和銅元年(七〇八)三月に上野守に任命された際に、「駿河清見埼」を経由していることも知られている(『万葉集』巻三・二九六題詞)。さらに時代は下るが、延喜十四年(九一四)、東海道に属する駿河国から、東山道諸国にいく国司や公使が、東海道を通らないようにという要求がなされていることも参考になろう(『別聚符宣抄(べっしゅうふせんしょう)』同年六月十三日付官符)。もっとも、これらの事例のなかにはかつての東山道武蔵支路を利用したケースも多々ありそうである。
さてこうした状況をうけて、宝亀二年十月の太政官奏(養老公式令3論奏式条の規程による)によって、武蔵国は東海道に移管されることになった(『続日本紀』同年同月己卯条)。東海道は正式に、相摸国夷参(いさま)駅(神奈川県座間市付近)より武蔵国府を経由し、乗瀦・豊島駅を経て下総国府近接の井上駅へと向かうこととなった。