乗瀦駅・豊島駅

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 では、その乗瀦・豊島両駅はどこに所在したのであろうか。豊島駅は『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』(大東急記念文庫本)豊島郡の郷名中に「駅家(うまや)」とあることから、豊島郡内に設置されていたことは確実である。東京都北区の御殿前(ごてんまえ)遺跡が豊島郡衙跡であることから、豊島駅を御殿前遺跡付近に比定するのが通説である。
 乗瀦駅については諸説が分かれる。これを「あまぬま」と訓(よ)み、東京都杉並区天沼に比定するのが通説的位置を占めていて有力であるが、「のりぬま」と訓み、東京都練馬区練馬に比定する説もある(図3-2-1のa)。
 あるいはまた、後述するように一〇世紀の『延喜式』段階の東海道が武蔵国府を経由せず、武蔵国府とは支路によって東海道と接続していたことからすれば、九世紀後半の律令国家崩壊過程において、わざわざ経費をかけて新路を建設したとは考えられないとし、すでに神護景雲二年の段階で武蔵国府を経由しない『延喜式』段階と同じ交通路が敷設されていて、乗瀦駅の位置もこの経路上である東京都大田区馬込付近に比定しようとする説もある(図3-2-1のb)。たしかに、相摸国から下総国経由での先を急ぐのであればその方が速いことは確かである。
 

図3-2-1 神護景雲段階の東海道


 
 ただし、乗瀦駅自体は『延喜式』段階で消滅しているから、乗瀦駅を通説どおり武蔵国府の次の駅と考えれば、これを東山道武蔵支路が公的役割を終えたことによる影響とも解釈できる。あるいは、東海道が『延喜式』段階で南へ下がったことで、武蔵国府が東海道本道から外れ、結果的に武蔵国府の次の駅である乗瀦駅が消滅したということも考えられ、これらの点を重視すれば、通説の方が交通路の変遷全体としては考えやすいかもしれない。八世紀後半段階の東海道のルートについては、最終的解決は考古学の成果(駅家関係の遺跡・遺物の発見など)に期待することになる。
 ただし先にも少し触れたが、武蔵支路がその後も道路としての機能を失ったわけではないことは、公私の行旅の飢病者を救うため、天長十年(八三三)に多摩・入間両郡の郡界に悲田処(ひでんしょ)を設けたことからもうかがわれる(『続日本後紀(しょくにほんこうき)』同年五月十一日条)。
 

図3-2-2 『延喜式』段階の東海道


 武蔵支路は、武蔵国が東海道所管になって以後も、京から東海道を経て陸奥方面へ抜ける一つのルートとして活用され続けていた。考古学的にも道路の硬化面から九世紀の遺物が発見されており、道路として以後も使用されていたことは確認されている。