『延喜式』の時代になると、すでに少し触れたように、この地域を通る東海道の駅路は変化しているようである。『延喜式』兵部省駅伝条には、武蔵国店屋(まちや)駅・小高駅・大井駅・豊島駅の四駅名が記載されており、『和名類聚抄』郡郷部中の武蔵国の郡の内、すでに触れた荏原(えばら)郡や豊島郡の他に都筑(つづき)郡・橘樹(たちはな)郡に各一の「駅家」がみえ、合計四駅の存在が示されていて、『延喜式』の数と一致する。さらに、先に触れた宝亀二年十月己卯条の記事に、武蔵国内を通過する駅が四つあるとされるのとも一致するが、これもすでに触れたように、『延喜式』所載の駅とは別ルートと考えたい。
これら四駅のうち、店屋駅については『和名類聚抄』郡郷部中の都筑郡に店屋郷がみえることからその付近として東京都町田市鶴間町谷に、小高駅については橘樹郡内の駅家にあてて神奈川県川崎市高津区末長小高谷に、大井駅については荏原郡の駅家として東京都品川区大井に比定するのが有力である。豊島駅についてはすでに触れたように、東京都北区の御殿前遺跡付近にあてられている。
以上からすれば、現在の港区の領域が武蔵国荏原郡に含まれるとすると、『延喜式』段階の東海道が港区内を通過していたことは間違いないであろう。なお前節末の中原道についての記述もあわせて参照されたい。