しかしながら式内薭田神社については論社になっていて、他に三社の候補があるが、それらのなかでもっとも有力とされるのが、御田(みた)八幡神社(三田三丁目)である。『御府内備考続編』に収められた「三田八幡社」の社伝によれば、和銅二年創祀、初め枚岡(伝白金三田)に鎮座し、寛弘年中(一〇〇四~一〇一二)に久保三田に、そして徳川氏関東入部後に現在地に遷座したという。また、慶応元年(一八六五)に神祇官により薭田神社とされたというが、文政年間(一八一八~一八三〇)の文書にすでに「薭田神社」とみえることから、この社伝は誤りらしい。明治五年(一八七二)十月に三田八幡と改称して郷社に列している。さらに、明治三十年に御田八幡の古称に戻り現在に至る。優れた国学者で古代史についても多数の卓見を残した伴信友は『式内社考証』『武蔵式社考』でこの神社を式内薭田神社であるとする。
ただもし薭田神社がもともと蒲田神社であるとすれば、蒲田郷内に所在するのが自然で、御田八幡神社は蒲田郷よりはるかに離れているのは、式内社候補としては都合が悪そうである。
全国の式内社を詳細に調査した『式内社調査報告』によれば、荏原郡地域には、右の二社以外にも薭田神社の社伝をもつ神社が紹介されている。また、その調査対象になっていない神社のなかにも式内薭田神社の末裔であるとするものが『御府内備考続編』などの近世の地誌類にみえる。ただし最終的には確たる根拠があるわけではないものの、やはり薭田神社とみるのがもっとも蓋然性が高いとされている。