律令時代に地方に課せられた租税としては、調庸が基本となる。とくに調は貨幣の代替物である繊維製品か、郷土の特産物を納めることになっていた(養老賦役令1調絹絁(あしぎぬ)条)。
荏原(えばら)郡から具体的にどのようなものを貢納していたのかについて手掛かりとなるのは、正倉院に納められた調庸布に記された墨書銘や、古代都城の発掘によって得られた、全国から運ばれた調庸を記載した木簡などである。前者については、武蔵国関係であれば、天平から天平勝宝年間にかけての調・庸布・絁などがあるが、現在の港区域が属していた荏原郡に関わるものは皆無である。
一方、都城出土木簡については若干の史料が存在する。「武蔵国荏原郡大贄蒜(おおにえのひる)一古」(城二九-三二下〈三六八〉)、「荏原卅一斤」(城三一-三六上〈五六八〉)、「荏原白米五斗」(長岡京二-八九三)といった具合である。
「大贄」とは、もともとは神ないし天皇に貢納する食料品のことで、食料を中心とした地方の特産品が調に規定された後もなお、別途、(大)贄として天皇に貢納されていたことが都城出土の木簡から知られている。「蒜」は調などの品目にはみえないが、『令集解(りょうのしゅうげ)』賦役令(ふやくりょう)1条古記にはみえ、また『延喜式』にも記載がある。ノビルのほかニラ・ニンニクなどのユリ科の植物のうち、臭気をもつものを指す。ただし次で触れる『延喜式』に記載された武蔵国物産中に蒜の記載はない。
また、荏原郡に隣接する橘樹(たちはな)郡に関わるものであるが、「橘樹郷茜十一斤」(城二四-二六上〈二四九〉)という木簡が出土している。「茜」は染料で、『延喜式』中の武蔵国貢納品のなかにもみえている。