また『万葉集』には、九州北部の防衛のために東国から派遣された防人(さきもり)や、その父・妻の歌が九八首ほど収められている。そのなかには、荏原(えばら)郡関係のものも含まれている。次に掲げるのは、荏原郡の第四等官であった主帳物部歳徳(しゅちょうもののべのとしとこ)の歌である。
白玉を手に取り持して見るのすも家なる妹をまた見てももや
右の一首は、主帳荏原郡の物部歳徳(『万葉集』巻二〇・四四一五)
白玉とは、ここでは真珠のこと。在宅の妻を、真珠を手に取ってみるように、もう一度会いたいものだと詠んでいる。それに答えた妻椋椅部刀自売(くらはしべのとじめ)の歌も採用されている。
草枕旅行く背なが丸寝せば家なる我は紐解かず寝む
右の一首は、妻椋椅部刀自売(『万葉集』巻二〇・四四一六)
さらに、一般兵士である上丁の歌も採用されている。
我が門の片山椿まこと汝我が手触れなな地(つち)に落ちもかも
右の一首は、荏原郡の上丁物部広足(ひろたり)(『万葉集』巻二〇・四四一八)
また、豊島(としま)郡の上丁椋椅部荒虫(あらむし)の妻が詠んだ歌も印象深い。
赤駒を山野にはがし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遺らむ
右の一首は、豊島郡の上丁椋椅部荒虫の妻、宇遅部黒女(うじべのくろめ)(『万葉集』巻二〇・四四一七)
防人が西国に向かう際には、まず武蔵国府に集合してから出発した。「赤駒」とは栗毛の牡馬のことで、『万葉集』には一一例あり、馬の表現としてはもっとも多いようである。武蔵野には牧もあったことは既述したが、赤駒を野に放してしまい大切な夫を徒歩で行かせてしまったことを、自分の責任のように悔やむ歌で、悲哀が漂っている。なお養老軍防令55防人向防条の規程によれば、防人は牛馬を伴うことが認められていた。国府から多摩川を越え、さらに多摩丘陵(多摩の横山)を越えて北九州に向かったのである。