竹芝の海岸の景観

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 この部分は、ほぼ四十年後の回想録であるから、もちろん記憶違いや思い込みもあり、すべてが正確に記述されているわけではないが、当時の武蔵野の情景をあらかた読み取ることはできよう。
 引用部分冒頭には、浜辺の砂が白くなくて泥のようだとあり、河川が集中して東京湾に注ぐあたり、有機質の土の堆積がひどかったのであろう。引用部分最後の「あすだ川」は隅田川のことであるが、武蔵と相摸の国境にあると記しているのは記憶違いであろう(もしこの記憶が正しければ、次に触れる竹芝寺を港区内とすることが無理になってしまうけれど)。『更級日記』では引用部分に続けて、相摸国の「もろこしが原」について触れているが、そこでは「砂子のいみじう白き」状態であるとして武蔵国とは対照的である。
 また、武蔵野には紫草が生えていると聞いていたのに、芦や荻ばかりが高く伸びていて、乗馬の侍が携えている弓の先まで隠れているという。ここで「紫草」に触れているのは、既述したように『延喜式』に武蔵国からの代表的な貢納品として規定されていたことと関係しよう。いずれも当時の都人の武蔵野に対する心象を代表するものであったのだが、孝標の娘が通過した東海道沿いは必ずしもそうではなかったのである。