つわものの台頭

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 九世紀末には中央集権的な律令国家は維持不可能になり、地方政治に中央政府が口を挟まない(中央政府への納税額さえ確保できていれば、具体的な地方支配の方法を問わない)、新しい国家体制へ転換しつつあった。日本の歴史では摂関政治から院政の時代にあたるが、学者によってはこの国家体制を「王朝国家」体制と呼ぶこともある。
 こうした状況下では、著名な「尾張国郡司百姓等解文(おわりのくにぐんじひゃくせいらのげもん)」で訴えられた受領(ずりょう)藤原元命(もとなが)のような、ありとあらゆる手段を用いて農民から搾取し、中央への所定の貢納分以外はすべて自分のポケットに入れてしまうような地方官が現れ、治安はきわめて悪い状況であった。東海道から東山道にかけての地域では俘囚(ふしゅう)の反乱も起こっている。
 とくに関東では「僦馬(しゅうば)の党」と呼ばれた駄馬輸送業者集団の強盗行為が問題になっている。昌泰二年(八九九)九月十九日付太政官符(『類聚三代格(るいじゅさんだいきゃく)』巻一八)によれば、彼らは東山道の荷物を盗んでは東海道へ回し、東海道の馬を掠めては東山道に向けていたという。その対策としてこのとき東海道相摸国足柄坂と東山道上野国碓氷(うすい)坂に検問のための関が設置された。
 また受領の任期が終わってもそのまま現地にとどまり、後任の受領との間で抗争を起こしたり、さらにそれに現地豪族をも巻き込むような事態にまで拡大していったので、現地の対立抗争は激しさを増すばかりであった。