承平八年二月、武蔵国足立郡司判官代(ほうがんだい)武蔵武芝と、武蔵権守興世王(ごんのかみおきよおう)・同介源経基との間に治政をめぐるもめごとが起こった。『将門記』は、在地の人間で郡内に善政をしいていた武芝と、苛政の限りを尽くした武蔵国司という構図で明確に描き分けている。
この武蔵武芝なる人物が、既述した『更級(さらしな)日記』の竹芝伝説と関わるかもしれないが確証はない。やはり既述した、八世紀に武蔵宿禰(すくね)を賜姓された一族の末裔である可能性は高いと思う。
対立相手の興世王については、他に史料がなく、「王」とあるので皇族出身であろうが、詳細は不明である。現地に赴任してきていて受領であることは明らかであるから、中央においてはそれほど高貴な身分の人間であったわけではないが、東国に下れば立派な貴種である。武芝が興世王に遠慮していったん山野に身を隠したというのも当然であろう。
また源基経は、清和天皇第六皇子貞純(さだずみ)親王の子で「六孫王(ろくそんのう)」と呼ばれたという。いわゆる「清和源氏の祖」であるが、実際の系譜関係については諸説ある。
この興世王と源経基の二人は、着任すると武芝の舎宅や武芝縁故の者の民家を襲って略奪し、他の舎宅は差し押さえてしまったという。これは直接には足立郡内の話であろうが、おそらく同様のことが武蔵一国すべてに及んだのであろうことは想像に難くなく、現在の港区域にまでも及んだのかもしれない。
なお『将門記』は二人の悪行を、中国後漢の暴君仲和(ちゅうわ)が太守として管内の財を貪(むさぼ)ったという所業(『華陽国志(かようこくし)』)に例えている。