一方、興世王は将門の側近となって盛んに将門をけしかけることになる。天慶二年(九三九)冬、将門はまず常陸国府を攻略すると、下野・上野・武蔵・相摸国府を次々と陥落させ、関東全域の支配を目指すことになる。ここに将門の乱が勃発した。『将門記』によれば、将門は上野国府においてみずから「新皇(しんのう)」と称し、王城を下総国に建て、諸国国司をみずから任じ、左右大臣以下の官を置くことをも定めたという。
またさらに興味深いのは、この将門の乱が、さらに広く東アジア世界の動乱と密接に関わっていた可能性があることである。将門が上野国府を占拠して「新皇」に即位した際、弟将平の諌言に対して、以下のように反論したと『将門記』は伝える。
今は戦って勝利を得たものを主君と仰ぐ時代である。国内にその例がないとしても、外国にはその例がある。去る延長年中に大赦契王が渤海(ぼっかい)を滅ぼして東丹国(とうたんこく)を建てている。どうして実力によって皇位を攻め取らないということがあろうか。
文中の「大赦契王」は、「大契赧(きったん)王」の誤記で、契赧とは契丹のこと。延長四年(九二六)正月に、遼(りょう)の耶律阿保機(やりつあぼき)が渤海を滅ぼしたことを例に引いて、自己の反乱を正当化しているのである。
もちろん、このやりとり自体は『将門記』作者によるフィクションであるかもしれないが、渤海故地での東丹建国という事実は、延長七年に東丹国使が日本に伝えているので、それが時の中央貴族に与えた衝撃は大きかったに違いない。そして、その記憶が将門の乱と重ね合わされて『将門記』に描かれたのであろう。東アジアの動乱が日本国内に波及するという認識、内政と外圧が連関するという認識を、当時の中央政府はしっかりともっていた。