源充(宛)と平良文

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 東国に関わる説話として、『今昔物語集』巻第二五本朝[付]世俗の第三話(ちなみにこの巻の第一話は平将門=出典は『将門記』、第二話は藤原純友=出典不明、である)「源充(あつる)と平良文(よしぶみ)と合戦する語」(出典不明)に、次のような話がある。
 
  今は昔、東国に源充(箕田(みだ)の源二(げんじ))と平良文(村岡の五郎。鎮守府将軍にして坂東八平氏の祖とされる)という二人の兵(つわもの)がいた。この二人は兵の道を競い合ううちに仲が悪くなり、軍を率いて戦で雌雄を決することになったのだが、そのうちに弓矢による一騎打ちで決着を付けることになる。しかし馬上より数度の渡り合いの後、引き分けに終わり、お互いの腕を褒め合って、あっさりと仲直りしたのである。
 
 この説話は短編ではあるが、東国武士の兵の道についての意地と率直な性格をよく伝えている。この二人のいたところは、ただ「東国」とのみあって具体的には不明であるが、以下に述べるようにおそらく武蔵国と関係が深く、さらには港区ともつながりのある説話であった可能性が指摘されている。
 源充(宛)=箕田源二は、後世の史料ではあるが『尊卑分脈』(嵯峨源氏)の項によれば、嵯峨天皇四世の孫(左大臣源融(とおる)―大納言源昇(のぼる)―源仕(つこう)―源宛(あつる))といわれ、父の仕は従五位下武蔵守(かみ)であるとされる。父の武蔵守としての任がいつごろであったかはっきりしないが、その父の昇は延喜十八年(九一八)に七十一歳で薨去(こうきょ)しているので、九世紀後半のことであろうか。その任国の武蔵に子の充(宛)も同行していて、武蔵の地で若い時代をすごしていたのかもしれない。あるいは箕田という字(あざな)から、その出生地を埼玉県旧北足立郡にあった箕田村(現在の埼玉県鴻巣市内)に比定し、箕田村を箕田源氏発祥の地とする伝承もあるが、可能性はあるものの、確たる根拠があるわけではなく、充についてはこれ以上のことはわからない。