飯倉の地が芝の地を含むことは、『江戸砂子』『江戸名所図会』に芝神明社・飯倉神明宮が増上寺境内にあったとしており、また『鉄醤塵蓋抄(てっしょうじんがいしょう)』慶長七年(一六〇二)条に、「芝浄土宗鎮西派三縁山増上寺、依御拝寺、飯倉辺寺替被仰付」とあることからも知られる。また、『小田原衆所領役帳』には、第二章第二節第三項で既述した「飯倉内桜田善福寺分」とか「飯倉弾正忠(だんじょうのちゅう)」の名がみえ、近世初頭の飯倉は、桜田から芝に至る広い地域であったことが推測される。
これらをうけて『御府内備考』は、往古の飯倉の範囲を、次のように述べている。
当町起立飯倉と唱候義者旧キ地名に御座候よしニ而相分兼候得共、往古伊勢御神供並御年貢米を入候倉之跡飯倉と地号相唱候よし申伝候。東者増上寺御山内辺より芝切通辺迄、西者六本木より永坂辺迄、南者赤羽新堀辺荏原郡を境、北者西久保辺より我善坊谷辺迄一円飯倉村と唱候場所ニ御座候よし。
(小口雅史)