日本の中世は、政治史的には院政期から始まるという理解が一般的である。中世的社会は、①権力の分散化、②土地支配の重層性、③軍事権門の社会的優越、という三つの特徴が指摘されている。①権力の分散化は、院政開始により、天皇経験者が上皇として院庁(いんのちょう)で国家の重大事を決める政治形態を開始したことで、王権が分裂したことに顕著に表れている。さらに、卓越した軍事力を誇る新たな権門として鎌倉幕府が登場したことで、権力の分散は決定的となったのである。鎌倉幕府の成立以後、天皇→国司→目代(もくだい)という国衙在庁機構を通じての天皇を頂点とする朝廷の命令系統と、幕府→守護→守護代という守護所を通じての将軍を頂点とする幕府の命令系統が併存し、ヨーロッパや中国の歴史に例を見ない公武二元支配の国制が出現したのである。
②土地支配の重層性は、公地公民制が原則であった古代奈良時代以来の律令支配体制の変質と崩壊によって、土地の私有制の時代に移行したことから生じた。古代の公地公民制から三世一身(さんぜいっしん)の法、さらに墾田永年私財法によって事実上土地所有が私有制に移行すると、大寺社や有力豪族、各地の有力者が荘園を開発し、現地の土地開発者と都などにいる皇族ならびに摂関家、大寺社をはじめとする本所(ほんじょ)や領家(りょうけ)との関係から、現地では預所職(あずかっそしき)・下司職(げししき)などの荘官諸職が設定され、鎌倉幕府は地頭職を設置した。それぞれが、その職に伴う収入としての得分権を有していて、ひとつの土地から生産される上分(じょうぶん)は、その労働力とともに得分として複数の権利者によって分割される複雑な経済収取体系が形成されていった。この複雑な土地支配の構造が根本的に改革されたのが、豊臣秀吉(一五三七~一五九八)の太閤検地である。秀吉は、天正十九年(一五九一)明智光秀を討って織田政権を継承すると、各地で検地を実施して、秀吉の朱印状で認めた石高の確認を絵図も作成して集め、天正御前帳と呼ばれるものの作成を開始した。この御前帳によって、軍役賦課や主従関係の前提である知行給付が行われ、また農民への年貢賦課の基礎台帳として近世的国制の基礎となったのである。この太閤検地によって、土地制度としての中世、すなわち荘園制は終焉を迎えたのである。
③軍事権門の社会的優越という事象は、中世社会の特徴をもっとも強く表現しているもので、中世が武士の社会といわれる所以(ゆえん)である。すでに、関白九条兼実の弟慈円が著した『愚管抄』で、保元元年(一一五六)の保元の乱を評して、これ以後は「武士の世」であると論じている。中世という時代を担った武士は、都と深く関係しながら日本各地に開発領主として興隆したが、関東でも鎌倉幕府の将軍と直接的に結びつきを強めた武蔵国の武士たちの活躍は軍記物語に多く語られているところである。鎌倉時代を通じて、朝廷や諸国の在庁機構の権限や機能は、幕府および守護に吸収される過程を示しており、室町幕府の足利義満(一三五八~一四〇八)の時代になって、京都洛中の警察権も全面的に幕府が掌握するに至った。しかし、軍事的・経済的・政治的に幕府が圧倒的優位に立った後も、朝廷は征夷大将軍位の宣下や伊勢神宮造替の儀式をはじめ有形無形の権威を保持してなお存続し、江戸幕府から経済力を制限されつつも幕末に至って討幕の盟主となり得たのである。