東国の中世

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 武蔵国南部に位置する港区域の武士と限定すると、古文書や古記録などに具体的な史料があまり残されていないのが残念であるが、武士たちの痕跡は確実に残されている。たとえば、港区神谷町の梅上山(ばいじょうざん)光明寺(虎ノ門三丁目)には、貞和四年(一三四八)の年号を持つ板碑(いたび)が残されている。この板碑は、基部横三〇センチ、高さ一メートルの堂々としたもので、南北朝期のものであるにもかかわらず、欠損なく完全な姿で残されており、非常に貴重な文化財である。板碑は板状の石で作成した卒塔婆のことである。時代的には鎌倉~南北朝期に集中して作成され、江戸初期にはみられなくなる。とくに鎌倉武士の信仰と深く結びついており、鎌倉武士の所領であった地に分布しているものである。詳細は板碑の稿(第三章第三節)に譲るが、光明寺の貞和の板碑は、武蔵型といわれる荒川流域の秩父長瀞(ながとろ)あるいは、槻川流域の小川町下里産出の緑泥片岩という緑色の変成岩が用いられている。港区内にはこの武蔵型板碑が他にもいくつも残されており、鎌倉時代の武士たちが港区域で活動していた確かな証跡といえるだろう。
 

図0-1 弥陀種子板碑
光明寺所蔵


 
 東国社会の中世への胎動は、平将門の乱まで遡るのが普通であるが、詳細は古代史の項で詳述しているのでそちらを参照していただきたい。ここでは、中世に東国、とくに港区のあった武蔵国で活躍する江戸氏と桓武平氏について述べる必要から、平将門の時代にも言及する。『将門記』には、平将門の乱の勃発に関係する人物として、武蔵足立郡司武芝、武蔵権守興世王(ごんのかみおきよおう)、源経基、平国香(くにか)などが記されている。平将門の父良将(よしまさ)(『将門記』のみ良持とする)は、鎮守府将軍に任じられ桓武天皇の孫平高望(たかもち)の子とされている。桓武天皇の孫高望王は、宇多天皇から平の姓を賜り臣籍降下し、その子国香・良兼・良将・良文などが常陸・下総・上総各国を拠点として武士団を形成していく。高望が、国香・良兼・良将らを伴って上総介に任官して東国に下向したのは、昌泰元年(八九八)のことで、長子国香は常陸大掾(だいじょう)家源護(まもる)の娘と婚姻したのをはじめ、高望の子息たちは現地で勢力を展開していった。この系統の平氏は、やがて平清盛の伊勢平氏や、関東に広く分布して源氏の家人(けにん)化していった坂東八平氏などとして広く繁栄した。
 将門の乱に関わった源経基は、いわゆる清和源氏の祖とされ、源頼朝はこの系統の源氏の出身である。いわゆるというのは、従来清和源氏とされてきたこの系統の源氏については、清和天皇→貞純(さだずみ)親王→源経基→満仲→頼信とされてきたが、石清水八幡宮の神官家「田中家文書」には、源頼信告文(こうもん)の写しが残されており、源頼信自らが先祖について、陽成天皇→元平(もとひら)親王→源経基→満仲→頼信と述べているからである。源頼信が誉田八幡(こんだはちまん)神社に奉納した告文の写しが石清水八幡宮の社家に残されていたわけだが、頼信の在世中は、陽成天皇没後からさほど時間が経過しておらず、事情を知る人物が複数生存していたであろうこと、また子孫繁栄を祈念する文書の性格上、頼信自身が神に偽りを申告するとは考えられないことなどから、清和源氏は陽成源氏であるとする有力な説がある。文書が正文ではなく写しである点や、文体がやや異例であることから偽書であるとする近年の反論もあるが、陽成源氏説は有力と思われる。
 

図0-2 清和源氏略系図


 
 先にも述べたように港区内に、この源経基をはじめとするこの系統の源氏ゆかりの寺社や伝承の地がかなり存在するのは、源頼朝、そして同族源氏の平賀義信が武蔵国主であったことが関係しているかもしれない。また、平安後期から鎌倉時代に入ると、武蔵国には、武蔵七党(むさししちとう)と呼ばれる武士団と、桓武平氏の平良文の子孫秩父流平氏の江戸氏とその庶流の活躍が見られる。武蔵国が将軍を知行国主とすることもあり、武蔵七党の武士の多くは、源頼朝との結びつきを深めて将軍直轄軍という性格を持った。源氏将軍時代が終わっても、北条得宗家が武蔵国の支配を継続したので、武蔵国御家人は幕府との結びつきが強かったのである。江戸氏は庶流の氏族も武蔵を中心に広く分布し、港区域にも金杉氏と飯倉氏という江戸氏庶流の活動が見られる。鎌倉幕府の滅亡と建武政権の樹立と崩壊、室町幕府の成立と続く激動期を経て、関東には室町幕府の関東統治機関として鎌倉に関東府が置かれ、足利尊氏(一三〇五~一三五八)の四男基氏(一三四〇~一三六七)が初代関東公方(くぼう)(鎌倉公方)として鎌倉に下った。室町幕府と関東公方の対立とさらに関東公方と関東管領上杉氏の対立関係は、やがて鎌倉公方成氏(一四三八~一四九七)が応仁の乱に先駆けて関東の戦国時代の始まりとなる享徳の乱を引き起こすことになるが、上杉氏の支配下にあった武蔵国の武士たちも、複雑な政治情勢の中での活動を余儀なくされた。鎌倉公方成氏が古河(こが)へ移動して以後、子孫はやがて勢力を失い、上杉氏も扇谷(おうぎがやつ)上杉と山内(やまのうち)上杉両氏の抗争が続き、その後、扇谷上杉定正が宿老太田道灌(一四三二~一四八六)を謀殺したことを契機として勢力を失い、やがて戦国大名小田原北条氏の台頭をみる。通史編中世では、港区域がある南関東武蔵国を中心に、鎌倉幕府成立から小田原北条氏の支配までを概観していくことにする。