源頼朝(一一四七~一一九九)が治承四年(一一八〇)に挙兵し、富士川合戦で平維盛の追討軍を敗走させた折、頼朝が追撃して京都に攻め上ることを希望したにもかかわらず、三浦・上総・千葉・小山など大豪族は各地の平家方被官の討伐による所領拡大と安定を望んだため上洛はできなかったことがある。このため、頼朝は武蔵武士団を将軍直属の武士団として組織し、武蔵国は将軍御分国として直轄化し、武蔵の武士は多く御家人として頼朝の直属軍を構成するに至った。また、武蔵国では桓武平氏出身の江戸氏が『吾妻鏡』に登場して以来、鎌倉幕府の中でも有力御家人として活動し、やがて戦国時代まで江戸氏とその一族が様々な活躍の足跡を残している。