港区域の中世荘園と寺社

197 ~ 198 / 323ページ
 中世の社会経済の基本構造は、荘園制と呼ばれる重層的な収取体系がとられていたことにあるが、豊臣秀吉の太閤検地で荘園制が解体されるまで継続している。港区の位置する武蔵国南部地域の荘園には、荏原(えばら)郡の六郷保、菅苅(すげかり)庄、豊島(としま)郡内の豊島庄と飯倉御厨(いいくらのみくりや)があった。六郷保は大田区域で、菅苅庄は目黒区から世田谷区域に該当していたらしい。また、豊島庄は豊島区域なので、明確に港区域に存在したのは伊勢神宮領荘園の飯倉御厨である。御厨とは伊勢神宮の荘園を特別にそのような名称としているもので、ほかにも加茂神社領荘園が賀茂の御厨と呼ばれている。
 また、港区内には平安・鎌倉時代に遡る伝承を持つ古寺社が多いが、氷川神社は白鳳時代に創建されたと伝え、御田(みた)神社(三田)は平安中期の寛弘二年(一〇〇五)に現在地へ移されたという。寺院としてもっとも古い伝承を持つのは、大同二年(八〇七)創建を伝える宝徳寺(三田)であるが、ほぼ同じころの天長元年(八二四)に空海によって開創された麻布善福寺(元麻布)は、鎌倉時代に真言宗から浄土真宗にかわったが、麻布門徒を組織して石山本願寺に援軍を送ったとの伝承もあり、浄土真宗の歴史のみならず、本願寺との深い関係性からも特筆すべき歴史を有しているといえる。善福寺の歴史や本願寺との関係については、第三章第一節を参照いただきたい。
 港区域は、戦国時代に入ると扇谷(おうぎがやつ)上杉氏とその部将太田道灌、さらに山内上杉氏の動向の影響を受けるが、戦国時代後半には小田原北条氏の支配下で整えられた「小田原衆所領役帳」という所領と軍役の関係を示す史料が残されていて、港区の地名と武士の名前が記録されている。