しかしながら、三浦義澄・和田義盛など義明の子息たちは頼朝と同様に海路で房総に逃れ、千葉介常胤や上総介広常らと合流して頼朝軍は大軍となった。千葉常胤は下総国の介であり、上総広常は上総国の介である。介とは律令官制では各国の次官であり、国衙在庁官人を率いる立場にある。とくに、上総国は九世紀以来、常陸および上野と同じく国主に親王をいただく親王任国であるから、介は事実上現地の最高長官であった。千葉氏や上総氏のような国々の介の地位にある有力豪族が、石橋山合戦敗戦後の頼朝に味方したことは、当時の東国武士の間で平氏政権への不満が大きくなっていたことを反映している。国衙在庁官人を率いる立場にある介をはじめ、多くの国衙在庁官人が鎌倉幕府成立に際して頼朝軍に参加していることから、承久の乱に際して、京都突入前の北条泰時の軍勢に届いた土御門院の院宣を読めた鎌倉幕府側の人間は一人しかいなかったという『吾妻鏡』の記事は、到底事実ではないといえるだろう。頼朝に敵対した畠山重忠と河越重頼そして江戸重長も、頼朝の勢力が三万を超える大軍に膨張すると、治承四年十月四日に至って武蔵国長井渡(ながいのわたし)で頼朝の陣に参向し、同族の豊島・葛西の両氏はその二日前に頼朝の陣営に投じている。軍容を調えた頼朝軍は、畠山重忠を先陣として六日には鎌倉に入った。
本節冒頭で述べたように、江戸氏は秩父流桓武平氏で、畠山氏・豊島氏・葛西氏などと同族である。「畠山系図」によると、一二世紀前半に下野権介、武蔵国留守所惣検校職(るすどころそうけんぎょうしき)に任じられていた秩父重綱の子重継が、江戸四郎と称して江戸氏の事実上の祖となったとされている。重継が住した江戸郷ないし江戸庄の「江戸」の地名は荏原(えばら)郡桜田郷内にあるということなので、港区にはゆかり深い氏族ということができよう。ただし、江戸庄という荘園名は記録類に見出すことができないので、荘園として立荘していたことは疑わしい。信頼性の高い古文書に「江戸」の地名が明記されるのは、弘安四年(一二八一)四月十五日付仮名書き自筆の平重政譲状(深江文書)に「むさしの国ゑとのかう、しはさきのむらの」と記され、「江戸の芝崎村」と読めるので、それ以前には江戸の地名があったことが明確となる。
江戸重長は、石橋山合戦と衣笠城攻めでも大庭景親・畠山重忠等と平家方に属して、頼朝からの帰参を勧める使者にも応ぜず、頼朝も謀殺しようとしたほどであったが、参陣した翌五日には、武蔵国諸雑事等を在庁官人ならびに諸郡司等に沙汰すべきことを命じられている。それを伝える『吾妻鏡』は次のようにいう。
十月五日、武蔵国諸雑事等、仰在庁官人幷諸郡司等、可令致沙汰之旨、所被仰付江戸太郎重長
これは武蔵国の在庁の指揮権を与えていることになるから、先祖重継の与えられていたという武蔵国惣検校職以来の権限の安堵とみることができる。敵対したうえに中々参陣せず頼朝が謀殺すら考えた重長に対して、参陣するや翌日にはこのような武蔵国一国の沙汰権を与えるというのは、江戸氏の武蔵国における無視できない影響力に配慮した措置といえよう。頼朝は、治承・寿永の内乱期には、後の守護にあたる総追捕使(そうついぶし)を要地に補任しており、『吾妻鏡』の短い記事からは断定できないが、国衙在庁官人と諸郡司等に対する沙汰権の付与は、総追捕使に匹敵するものであると思われる。
図1-1-1 江戸氏略系図