古文書に登場する江戸氏

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 江戸氏の文書史料としてもっとも早いのは、「石清水文書」寛喜四年(一二三二)二月付の石清水八幡宮護国寺祠官連署挙状に、「而去承久乱逆以後関東新補地頭恵戸(江戸)四郎重持、殺害公文清村幷神人僧慶尊」とあって、出雲国安田庄新補地頭として殺人事件を起こして訴えられている江戸四郎重持という人物が確認される。この江戸四郎は、同じく「石清水文書」宝治三年(一二四九)二月付権大僧都成真処分状にも名前があらわれる。また、江戸重長の二男氏重から始まる木田見(きたみ)氏は、現在の世田谷区喜多見付近を所領とする江戸氏庶流である。この木田見氏と熊谷氏との悪口(あっこう)の咎(とが)での訴訟も、文永十一年(一二七四)正月二十七日付「熊谷家文書」関東御教書(みぎょうしょ)で知ることができる。この関東御教書では、木田見小次郎長家が熊谷直高に悪口の咎で訴えられ、敗訴した結果、幕府から「所領半分」を熊谷直高に分与すべきことを命じられている。木田見氏と熊谷氏は親戚関係にあっても係争が絶えず、その関係文書はすべて「熊谷家文書」に残されている。さらに建治元年(一二七五)七月五日付関東下知状、嘉元二年(一三〇四)五月一日付関東下知状でも双方の相論に裁許が下されている。江戸氏庶流の金杉氏についての史料は、「鶴岡八幡宮文書」正和元年(一三一二)八月十一日付鎌倉将軍守邦(もりくに)親王寄進状で、「金曾木(金杉)彦三郎重定所領事」と記されているので、鎌倉時代末期には港区域に所領があったとみられる江戸氏庶流の金杉氏の存在が確認できる。これら江戸氏庶子家は、惣領制的支配のもとで江戸氏に従って武蔵守の命令によって、幕府軍の編成される際には軍事的な奉公を行っていたであろう。
 鎌倉幕府が滅亡に追い込まれた直接的契機となった護良(もりよし)親王と楠木正成の挙兵に際して、江戸氏は幕府軍として楠木正成の籠る千早城攻めに加わっていることが、「伊勢光明寺文書残篇」に記されている。この時、幕府軍として参加していた中には、新田義貞(一三〇一~一三三八)とその一族も記されており、江戸氏もその直後から幕府滅亡までの間に後醍醐天皇側についたのであろう。武蔵国は、武蔵守護の項でも述べるように、鎌倉時代を通じて将軍および北条氏が国主を務めていたので、同国の御家人は幕府への帰属性が強く、また北条氏の支配力も他の北条氏の守護国より強かったと考えられるから、江戸氏の後醍醐側への離反のタイミングはきわどいものだったに相違ない。
 
  熊谷小四郎直経申武蔵国木田見郷一分地頭職事、木田見孫太郎致濫妨云々、所申無相違者、可令沙汰付之、若又有子細者、可被注申之状如件、
    元弘三年十二月廿日   尊氏(花押)
  伊豆守(上杉重能)
                      (「熊谷家文書」)
 
 元弘三年(一三三三)五月に鎌倉幕府が滅亡してまもない十二月には、江戸氏庶氏家である木田見孫太郎が、熊谷直経の所領を押領(おうりょう)したことを訴えられ排除命令を受けている。右の史料は、熊谷尚玄が武蔵国木田見郷一分(いちぶ)地頭として、木田見孫太郎の濫妨(らんぼう)行為を訴えたことが認められ、守護上杉重能に現地の引渡しを命じている元弘三年十二月二十日付足利尊氏御判御教書である。「熊谷家文書」には、このように鎌倉時代に引き続いて縁戚である熊谷氏と木田見氏の訴訟行為が続いている史料が散見する。この尊氏御判御教書では、足利尊氏がかつて北条高時の偏諱(へんき)を受けて足利高氏としていたのが、後醍醐天皇の諱(いみな)である尊治(たかはる)から偏諱を受け尊氏と署判している。また、名宛人(なあつにん)の伊豆守は上杉重能であるから、文書の内容から重能は、武蔵国の守護、または尊氏を守護正員(しょういん)とすれば守護代ということになる。
 尊氏が後醍醐天皇に背いて建武政権が崩壊し、尊氏が持明院統を奉じて幕府を開くと、弟直義(一三〇六~一三五二)と両将軍と称され、いわゆる二頭政治の中で直義は統治権的支配権を掌握したとされ、裁判訴訟の判決は直義の下知状様式をもつ裁許状で下された。直義は袖判下文と御教書も発給しているが、全国の社寺に依頼した祈祷命令の一通が港区の芝大神宮(芝大門一丁目)に残されている。この建武四年正月七日付足利直義御教書は、区内最古の古文書として貴重な文化財である(口絵7)。
 「石清水文書」建武五年(一三三八)八月二十七日付足利直義裁許状によると、江戸孫次郎清重と小三郎重長が、石清水八幡宮領荘園である出雲国安田荘の雑掌行宗から神領押領で訴えられている。江戸氏は他の有力な関東御家人同様に、平家没官領などとして西国に散在所領を地頭職として与えられていたことがわかる。この裁許状からは、江戸氏の先祖重茂が安田荘雑掌と相論した結果、寛元元年(一二四三)八月九日付関東下知状によって下地中分(したじちゅうぶん)をしていることから、神領は南方、地頭分は北方と定められていたのを、南方の八幡宮領まで重茂が押領するに至った経緯を知ることができる。また、建武五年の段階で江戸氏が直義の裁許を受けている事実から、江戸氏は足利方(北朝)に属していたことが明らかである。次に、「正宗寺文書」貞和二年(一三四六)九月八日付高重茂(こうのしげもち)奉書では、江戸次郎太郎重通が武蔵国内の石浜・墨田波(すんだば)・鳥越の三か村について、石浜弥太郎入道の押領を訴えていることについて、守護代小杉彦四郎に下地を重通に打渡すよう使節の遵行(じゅんぎょう)を促している。石浜弥太郎入道は江戸氏一族の政重で、同族内の所領争いであるが、やはり江戸氏の足利方としての立場を確認できる。この事実は、貞和三年三月二十四日付江戸重通代同重村着到状と、延文元年(一三五六)九月日付江戸重房代同高泰着到状の二通(第二章第一節)の足利方守護代証判を受けている文書からも明らかである。