新田義興謀殺への関与

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 新田義貞の遺児義興(一三三一~一三五八)が武蔵国矢口渡しで足利方に欺かれて最期を遂げたことは、近世に平賀源内が「神霊矢口の渡し」で有名にした事件である。この新田義興謀殺については、『太平記』の記事に詳しく、確かな史料はないが、江戸氏が関与したことは間違いなさそうである。また、東急池上線沿線には新田神社や新田塚などこの事件に関連した史跡が多く残されている。『太平記』の記事によると、延文三年(正平十三年、一三五八)尊氏の死去を好機と考えた新田義興は、武蔵野合戦で実現したように鎌倉占領を企てたが、鎌倉公方足利基氏は、江戸遠江守に阻止することを命じた。おそらく、多摩川を挟んだ地域は江戸氏の支配するところだったので、基氏が江戸氏に命じたのは当然だったと思われる。義興もその周辺に潜伏していたことが推知される。江戸遠江守は、竹沢右京亮(うきょうのすけ)なるものに命じて所領を没収して南朝帰参を装って義興に近づかせ、さらに江戸下野守と江戸氏庶流の蒲田忠武などと謀って、延文三年十月十日、義興主従一三人を矢口の渡しで謀殺した。蒲田忠武の父正長は、江戸遠江守の次子で江戸氏庶流である。既述のように、江戸氏一族の多くは足利方であったことは文書史料からも明らかなので、被官の竹沢某を所領没収という形にして義興に近づけたという話は、『太平記』の作為でなくともありそうである。江戸遠江守は、「畠山系図」の注記によれば江戸高重のこととするが、時期的に矛盾があり、その父江戸長門であるとされている。この後、永和四年(一三七八)以前に上野守護代とみられる修理権太夫(しゅりごんのだいぶ)頼兼なるものが、江戸宮内少輔(くないのしょう)房重について、「於当国多年致忠節候、被懸御意可有御披露候哉」という軍忠推挙状を上野守護上杉兵部少輔(ひょうぶのしょう)入道すなわち上杉能憲宛に上申している。上野守護代が守護正員へ挙状を上申していることから、江戸房重の多年の忠節というのは上野国内のことと考えるのが普通であるが、あるいは上野を根拠地としている新田討伐に関する全体的な評価なのかもしれない。新田義興謀殺も無関係ではない可能性もある。『太平記』には、新田義興謀殺を入間川在陣中の基氏に報告した帰途、義興の祟りによって死んだとするが、真偽のほどは定かではない。しかし江戸氏は、将軍義詮・関東公方基氏が貞治六年(一三六七)に相次いで没し、新関東管領上杉憲顕が義満将軍就任祝賀のため上洛した際に反乱を起こして没落した(第二章第一節)。武蔵平一揆(へいいっき)の乱である。江戸遠江守と下野守の史料は、延文三年の尊氏死去のころ、武蔵国橘郡南東部にあった稲毛庄十二郷にあったとされ、鵜木(うのき)光明寺(東京都大田区)には江戸氏一族の墓と称する板碑や五輪塔などがある。いずれにせよ、多摩川を挟んだ地域に江戸氏の所領があったことが推察されよう。「正木文書」(国立公文書館所蔵)に残る次の文書は興味深い。
 
  岩松礼部代国経申、武蔵国稲毛新庄内渋口郷事、任被仰下之旨、差遣使者、欲沙汰付下地於国経候之処、江戸蔵人入道希全・同信濃入道々貞・同四郎入道々儀等、率多勢構城槨無是非擬及合戦候之間、不能打渡候、若此条偽申候者、八幡大菩薩六所大明神御罰罷蒙候、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、
   至徳元年七月二十三日  沙弥聖顕(花押)
 
 この史料は、遠江守死後まもなく、稲毛新庄が江戸氏から没収されて岩松氏に与えられ、その下地(現地)を岩松国経に打渡すことを命じられた守護代大石聖顕が、江戸氏一族が兵を集め、現地に城郭を構えて合戦に及ぼうとするので、直国に土地の打渡ができない旨、起請文言を記して守護上杉憲方に報告している請文(うけぶみ)である。幕府に帰参した新田一族岩松直国に与えられた江戸氏の旧領稲毛新庄が、なぜ江戸氏から没収されたかを示す史料はない。おそらく、応安元年(一三六八)の平一揆の敗北による所領没収を免れた懸命の地であったのであろう。所領の没収を認めない江戸氏一族が城郭を構えて抵抗したが、これ以後、江戸氏一族は没落する。おそらくその後、守護の軍事力の行使により、稲毛新庄は江戸氏から岩松氏に引き渡されたものと考えられる。