第二章第一節でも述べるが、関東公方基氏の子氏満(一三五九~一三九八)が、関東管領上杉憲顕とともに武蔵国を中心とした平氏系氏族の反乱である平一揆の乱を鎮圧したことで、江戸氏をはじめ豊島氏など武蔵の平氏系武士たちは所領の没収などで勢力を失ったものと考えられる。この結果、港区内にあった江戸氏の金曾木彦三郎の所領が没収され、鶴岡八幡宮に寄進されていることが、応永六年(一三九九)十一月十二日付足利満兼寄進状および同日付武蔵守護上杉朝宗遵行状で判明する。鎌倉公方足利氏は幕府の将軍との対立関係があり、また管領上杉氏が室町将軍の意をくむ形で鎌倉公方を掣肘(せいちゅう)するため対立的であるという政治構造の複雑さが関東にはあった。後に同族であるにもかかわらず、山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立により後北条氏の関東進出に利する結果となっているのである。このような複雑な情勢の中で、武蔵の国人である武士たちも離合集散しながら安定しない地域支配を続けていたのである。
応永十一年、鎌倉公方足利満兼(一三七八~一四〇九)は上杉朝宗に対して、下総国大慈恩寺に寄進した武蔵国六郷保内大森・永富両所が、江戸蒲田入道らの押領狼藉により大慈恩寺雑掌からの訴えがあったので、狼藉人を退けて寺家に知行させるよう命じている。何らかの理由で鎌倉府から没収されて寺院に寄付された所領を、実力行使で引き渡さない抵抗を行う江戸氏庶流蒲田氏に対し、足利満兼は、守護代に抵抗を排除するように関東管領でもあった武蔵守護上杉朝宗に命じているから、その後の蒲田氏の現地支配は排除されたものとみられる。満兼が大慈恩寺長老に充てた翌応永十二年八月三日の御教書によれば、江戸蒲田氏の大森・永富両所は明徳二年(一三九一)に同寺に寄進されているため、江戸蒲田氏からの没収はそれ以前である。平一揆の乱で江戸一族が打撃を受けて没落したのは応安元年ごろだから、少し時間が経ちすぎているため、そのころまでは大森・永富の所領を蒲田氏が維持し、その後、至徳元年(一三八四)の事件で没収されたのであろう。