『鎌倉大草紙』によれば、江戸氏は上杉禅秀の乱では、持氏に従って江戸近江守が討死し、また武蔵世谷原(現在の横浜市瀬谷区)に禅秀勢と戦って禅秀方の軍勢を破るなどの大きな戦功を挙げている。
応永三十年になると前遠江守有安が、一族江戸大炊助(おおいのすけ)憲重が申し立てた豊島郡桜田郷の中の沽却地(こきゃくち)を、鎌倉府の十一月十三日付関東管領施行状(しぎょうじょう)を受けて、江戸上野入道とともに両使として現地に臨んで憲重に下地を打渡している。豊島郡桜田郷は広範囲であるが、港区域にかかっているので、港区の歴史に重要な史料である。関与しているのがすべて江戸氏ということが注目されよう。
応永三十三年になると、甲斐国守護武田信満の長男信重と二男信長の争いに介入した、鎌倉公方足利持氏(一三九八~一四三九)は部将一色刑部(ぎょうぶ)少輔持家を派遣している。江戸大炊助憲重はこれに従軍して書状形式の感状を七月二十六日付で一色持家から受け、さらに八月十一日には、足利持氏から「於甲州田原陣、致忠節之由、刑部少輔持家所注申也」として直接軍忠への感状を受領している。桜田郷を領していたことが明らかな江戸憲重が、甲斐国武田氏の内紛で一色持家に従って、持家と鎌倉公方持氏から軍忠を認められたのである。恩賞が与えられたかどうかについては、感状の文言が「弥(いよいよ)可励戦功之状如件」となっており、「可有恩賞之状如件」ではないので、単に戦功を褒賞したのみで恩賞地は与えられなかったかと思われる。
次に、文安六年(一四四九)に至って、江戸憲重は、桜田知行分と牛込知行分から五貫文ずつを重方に譲り与える旨を記した譲状を残している。この重方の子孫は江戸氏庶流の牛込氏を名乗っていたはずであるが、小田原北条氏の支配の中で、大胡氏の庶流牛込氏が同地を知行地とし、「牛込家文書」はこの大胡氏庶流の牛込氏の残したものであるが、江戸氏庶流牛込氏の残した文書も数通継承している。また、永享の乱では江戸氏庶流の蒲田弥次郎が鎮圧された持氏方として討死しており、その所領の没収は免れなかったであろう。享徳の乱が始まった享徳四年(一四五五)に、江戸下総入道道景・同六郎が武蔵大袋の合戦で討死したと伝えるが、これは過去の経緯から公方成氏側として戦った結果と思われ、江戸氏主流の勢力はさらに大きく衰退したと思われる。