武蔵国の守護

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 鎌倉幕府が成立すると、源頼朝は文治元年(一一八五)、弟義経に後白河法皇が頼朝追討の院宣を与えたことについて、北条時政を京都に派遣して朝廷に抗議し、謀反人源義経と叔父行家逮捕のため、守護・地頭の設置を承諾させた。幕府による守護・地頭が設置されたことにより、各国には国府に朝廷が任命する国司―目代(もくだい)の命令系統と、守護所に幕府が任命する守護―守護代の命令系統が併存することになり、国制上は、世界に類例を見ない二元支配の構造が出現することになった。近年では、諸説ある鎌倉幕府の成立を、この守護・地頭を設置した一一八五年とする教科書も現れた。ここでは、港区域が属する武蔵国の守護の沿革について述べる。この地域の武士たちは、御家人であれば鎌倉幕府の命令を受けた守護からの指揮によって行動したはずであり、短期間の建武政権を経て室町幕府の守護についても一段と強固な軍事的支配権のもとで行動したと思われるからである。
 鎌倉時代における守護の在職徴証は、所務相論の係争地である論所(ろんしょ)の押妨(おうぼう)・押領(おうりょう)を停止し、勝訴した正当な知行者に引渡しを命ずる幕命の受命者ないしその旨を奉じた文書を発給している者が守護と認められる。鎌倉時代では所務の遵行命令、役夫工米(やくぶくまい)・大嘗会等諸役の徴収もその証拠となる。
 守護と守護代の関係について、幕府による任免対象である守護正員(しょういん)と守護正員が任免権をもつ守護代官は、主従関係にあるのが普通である。したがって、守護代を特定して、守護を推定することも可能である。
 現地で直接守護の命令を実行するのは守護代であるから、守護と守護代は各国の御家人や住人にとって、幕府を背景とした大きな影響力があったことは疑いない。
 港区域のあった武蔵国の守護については、他の諸国と比較して特徴がある。それは、源頼朝が朝廷から武蔵国の知行国主に任じられ、以後将軍家知行国であったという事実である。国司は知行国主が推挙して朝廷が任命するが、元暦元年(一一八四)六月の朝廷の除目(じもく)で、甲斐源氏の平賀義信(源義家の弟義光の孫)が頼朝に推挙されて武蔵守に任じられている。武蔵国では将軍が知行国主で、守護職を兼務する国司を推挙し、平賀の後はほぼ北条氏が世襲的に国司になっていたのである。つまり、武蔵国では国司はいても守護は任命されていないことになる。頼朝死後は、承元四年(一二一〇)、北条義時の弟時房が武蔵守となった。その後、武蔵守は北条得宗家が世襲している。他にも、鎌倉幕府体制下で守護が設置されなかった国としては、陸奥国・出羽国・山城国・志摩国・大和国などがある。陸奥国では、文治五年九月、奥州藤原泰衡討伐の直後に、桓武平氏の一流である秩父氏・豊島氏の庶流である葛西清重が陸奥御家人奉行に任命された。翌年、藤原氏残党討伐に際しての合戦の状況報告は清重から幕府に報告されているので、陸奥国御家人の軍勢統率権が与えられていたとみられるが、他国の守護にみられる検断権は平泉郡一郡にしか確認されないので、守護職ではないと考えられている。建久二年(一一九一)三月に伊沢家景が陸奥留守職に任ぜられ、国中の訴訟取次を命じられ、葛西清重と並んで奥州惣奉行と『吾妻鏡』(建久六年九月二十九日条)は記すが、夜討取締り命令など警察権の伝達は、幕府から直接郡郷地頭に充てられているので、守護は設置されていなかったと認められる。出羽国も同様である。山城国は、承久乱以前は京都守護、乱後は六波羅探題が守護の役割を担っており守護は不設置である。大和国はさらに特殊で、興福寺が支配しており、幕府の任命する武家の守護は存在しなかったのである。いずれにしても、鎌倉時代を通して武蔵国には守護は設置されず、関東知行国であったことは間違いない。したがって、武蔵国御家人に対する幕府命令の伝達や執行(しぎょう)は、国司が国務と守護の職権を兼ねて行っていたと考えられているのである。江戸氏をはじめとする武蔵国御家人は、源氏一族のもと御家人となり、やがて一三世紀初頭以後は、北条得宗家が国務を執るなかでその支配に服していたのであろう。
 源頼朝が武蔵の知行国主に任命されたとき、他にも相模・伊豆・駿河・上総・下総・信濃・越後・豊後の各国の知行国主となっているが、相模は三浦氏、伊豆・駿河は北条氏、上総は上総氏、信濃は比企氏などが守護ないし目代として国衙機構を掌握した。
 

図1-2-1 源氏系図
『尊卑分脈』から作成