頼朝によって鎌倉幕府治世下で最初に武蔵国主に任命された平賀義信については、鎌倉幕府編さんの正史『吾妻鏡』に記述が多く、優れた治世を実現したことで知られている。義信は、平治の乱で頼朝の父義朝に従って戦い、京都から落ち延びるときに従軍した数騎の中にあって、義朝が尾張国内海の野間で長田(おさだ)忠致に殺害された際にも同行していた武士である。出自としては源八幡太郎義家の弟義光の孫にあたり、常陸の佐竹氏や甲斐武田氏と同族で、この系統の源氏の名門であった。その義朝との深い縁故のためか、文治元年九月に義朝の遺骨を鎌倉の南御堂に埋納した際には参列を許されている。頼朝と同族である有力な源氏一門が滅ぼされ、あるいは謀殺されていくものが多数あった中で、平賀義信は頼朝死後まで生を全うすることができた数少ない源氏一門の武士であった。
『吾妻鏡』では、義信の子朝雅が武蔵守の官途を称している記事があるが、義信に次いで武蔵国主になった明証があるのは、北条義時の弟時房(一一七五~一二四〇)である。時房は父時政失脚の後、遠江守次いで駿河守に任じられ、承元四年正月十四日に武蔵守となった。以後、相模守に転ずるまで一一年間在職した。承元四年三月、武蔵国大田文(おおたぶみ)の調進が幕府から命じられ、国内の国衙領荘園などの田地の面積、所有関係を記載して作成した。これは、地頭補任や京都・鎌倉の大番役、守護所番役などの御家人役の賦課の台帳とするために作成された。ちなみに、京都大番役は全国の御家人平均役(へいきんやく)であるが、鎌倉大番役は和田義盛の乱の後、北条泰時によって新たに京都大番役に倣って鎌倉将軍御所の警備を目的に関東八箇国の御家人にのみ与えられる番役として制定された。このような軍役賦課の基本台帳として幕府が各国ごとに調進を命じたのが大田文である。土地の所有関係は流動的であるので、所領を質入れまたは売却してしまう場合などを想定して、幕府の軍事動員可能な員数把握のため、とくに蒙古襲来の危機に際して各国に大田文の調進が命じられたことが知られている。時房以後、武蔵守は、大江親広、北条泰時、同朝直、同経時、同長時、同宣時、同義政、同宗政、同時村、同久時、同煕時、同貞顕、同守時、同貞将とほぼ北条氏が独占して継承した。