南北朝期武蔵国守護の沿革

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 鎌倉幕府の滅亡と建武政権の成立と崩壊、そして足利尊氏の幕府樹立と目まぐるしい動乱期に、鎌倉幕府の守護制度を継承する形で守護が各国に設置されたが、南北朝の動乱という状況下で、守護の在職徴証は鎌倉時代より多岐多様なものが現れるようになった。
 所務の遵行(じゅんぎょう)は、鎌倉幕府では使節二名を選任して現地に派遣していたが、鎌倉時代後期には論所のある国の守護が代行するようになった。足利政権でもそれを継承しており、論所を勝訴した正当な知行人に沙汰付する使節は、原則として守護→守護代の命令系統で執行するシステムを用いている。したがって、この過程で作成される幕府の執事、または管領や引付頭人(ひきつけとうにん)から沙汰付を命じる施行状(しぎょうじょう)の名宛人(なあつにん)は守護として認めることができる。次に、役夫工米・大嘗会米など社寺造営諸役は、鎌倉時代後期から幕府を通して守護が徴収するようになっていたが、室町幕府は、院宣や綸旨を奉じて幕命を諸国の守護に通達してこの徴収を行ったので、幕府執事、後に管領からのこれらの徴収命令を命じる施行状の名宛人は守護である。また、軍事政権である幕府からの対南朝軍事作戦に関する命令も諸国守護宛である。とくに、軍勢催促状の文言に「国中地頭御家人」を催促すべしという文言があれば、名宛人は守護または広域的軍事指揮権を有する国大将(くにだいしょう)のいずれかである。また、武士たちが恩賞請求のために提出する軍忠状についても、比較的長期間にわたる複数の合戦を列挙する一括申請型軍忠状に証判を加えているのも守護であり、これをもとに、指揮下の武士の恩賞の推挙を幕府に行う推挙状の作成者も、守護あるいは国大将に他ならない。
 鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇の建武政権下での武蔵国は、源頼朝がそうであったように足利尊氏が知行国守となり、守護と国司を兼帯した。鎌倉幕府滅亡直後の元弘三年(正慶二年、一三三三)七月下旬には足利高氏が武蔵国守護に任じられ、八月五日除目で武蔵守に補任され、後醍醐天皇の偏諱で尊氏と改名した。守護代ないし目代としては、上杉重能や高重茂(こうのしげもち)が活動している。尊氏は建武政権に背いたことで、建武二年(一三三五)十一月二十六日除目で、従二位・参議・佐兵衛督(さひょうえのかみ)・鎮守府将軍を解任された。建武政権が、解任した尊氏の後任に誰を武蔵国に補任したかは不明である。建武三年十一月二十五日に尊氏は北朝から権大納言・参議に任ぜられ、同年十二月十三日に高師直の弟重茂の守護在職が確認される。守護代は、貞和二年(一三四六)段階では小杉彦四郎という人物である。国主は建武政権発足以来、守護職兼帯の足利尊氏だから、建武政権に背いて解任された後、北朝からの補任により国主に還補(げんぽ)して国司・守護兼帯の武蔵守に復帰したことは間違いない。その後、守護職は分離して高重茂を尊氏が補任したものと推認できる。幕府執事高師直がその発給文書に武蔵権守、次いで武蔵守の署名をしているのは、守護ではなく国司の方であるから当初は目代、次いで武蔵守を尊氏から引き継いだということになる。尊氏は建武五年に、越前での新田義貞戦死にともない征夷大将軍に就任するので、その機会に武蔵守を師直に与えたものと思われる。守護としては、暦応四年(一三四一)に高師冬が確認できるから、それまでに重茂と交代したことが知られる。師冬は北畠親房率いる常陸国の南朝軍を制圧するために下向したが、関東の直義党上杉氏の非協力など足利方有力守護の支援が十分に受けられないこともあり、守護となった武蔵国の武士に厳しい軍勢催促を行って従軍させ、やがて親房の籠城した関城、次いで大宝城・伊佐城を陥落させ親房を吉野に逃げ帰らせる成果を挙げた。
 師冬の次に守護在職徴証を残すのは、高師直である。観応元年(一三五〇)八月九日、代官薬師寺公義(きんよし)に武蔵国内の敵方闕所地(けっしょち)を味方の安保肥前権守に打渡すよう命じた遵行状が残されている。この文書は、当該期守護の闕所地処分権の行使とみられることから、高師直が武蔵国守護であったと考えられる。一方でこの観応元年は、足利方の内部分裂である観応擾乱の時期であり、高師直が武蔵に下向してくる余裕はなかったとみられ、守護代に遵行命令を発給しているにとどまることは明らかである。また、師直の官途名についてみると、先述のように暦応元年二月五日までは武蔵権守、同年五月十一日以降から師直滅亡の観応二年まで武蔵守と署名している。建武四年に重茂ついで師冬に守護の在職徴証があることから、国司と守護正員は師直が兼帯し、重茂と師冬は守護代であった可能性が高い。第一次観応擾乱で足利直義が勝利し、高一族は唯一直義党であった高師秋等わずかな一族を残して大半が粛清された。この結果、武蔵国司兼守護は、直義か直義党の有力部将が任じられたに相違なく、早くも観応二年九月二十一日、関東府の足利基氏が命じた遵行手続きの報告を上杉兵庫頭(ひょうごのかみ)憲将が行っている。上杉氏は、足利尊氏・直義兄弟の生母の実家で藤原勧修寺(かじゅうじ)系の家であるが、観応擾乱に際して忠実な直義党の部将として活動しており、直義に敬服していたとされる尊氏の子基氏を擁していたのである。しかし、第二次観応擾乱で直義が敗れ、鎌倉で高師直等の一周忌の日に、直義は毒殺と噂された急死を遂げることになる。尊氏は、武蔵国守護を直義党の上杉氏から尊氏党の仁木頼章(にっきよりあき)(一二九九~一三五九)に改替していることが、正平七年(観応三年、一三五二)正月付武蔵国の別符幸実の一括申請型軍忠状と高麗経澄着到状への頼章の証判から知ることができる。
 次いで、足利尊氏が南朝と袂(たもと)を別ち、正平年号から観応年号に復した観応三年七月二日、仁木頼章が幕府執事として自ら守護を務める武蔵国の代官宛に武蔵国池守郷地頭職遵行を命じる施行状を発給している。次いで延文二年(一三五七)十二月二十二日、畠山国清宛に鶴岡八幡宮領武蔵国金曾木彦三郎・市谷孫四郎跡の遵行を命じた鎌倉公方足利基氏が発給した御教書(みぎょうしょ)があり、武蔵守護は畠山国清に交替したことが知られる。金曾木氏は、江戸氏庶流で港区金杉付近を所領とした武士であったと考えられており、この御教書は港区に関係する数少ない中世史料である。畠山国清は関東執事として基氏と入間川に在陣し、この間に関東諸国の武士に入間川の陣での警固番役を務めさせている。仁木頼章と交替した畠山国清は、康安元年(一三六一)に失脚するが、その後の守護は不明確で、基氏の命を両使によって遵行する形態がとられていたので守護正員は国守として基氏自身が兼帯したものと思われる。応安元年(一三六八)に至って上杉能憲の守護在職徴証が現れ、次いで永和四年(一三七八)には上杉憲春、康暦元年(一三七九)には上杉憲方が明徳年間まで在職した徴証がある。
 上杉氏は、山内(やまのうち)・犬懸(いぬがけ)・扇谷(おうぎがやつ)・宅間(たくま)の各家に分かれたが、宅間上杉氏は早くに衰え、犬懸上杉氏は関東管領を務めた氏憲(禅秀)が上杉禅秀の乱で滅ぼされて没落した。この結果、憲顕の子孫山内上杉氏と朝定の子孫扇谷上杉氏が勢力を持ち、鎌倉公方のもとで禅秀の乱以降の関東管領職は山内上杉氏が世襲した。
 以後武蔵守護は、山内上杉氏が世襲したと思われるが、小田原北条氏の武蔵支配によって名実共に終わりを告げる。
 

図1-2-2 上杉氏系図
‖は養子関係を示す。
峰岸純夫『享徳の乱』(講談社、2017)所収図をもとに作成