南北朝動乱と武蔵武士

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 六〇年に及んだ南北朝の動乱は、日本中世社会の諸相に大きな変化を及ぼした画期とされ、戦乱の長さはおよそ一世紀続いた戦国争乱に次ぐ長期の内乱であった。元弘三年(一三三三)の鎌倉幕府の滅亡と後醍醐天皇の政権の樹立・崩壊、そして建武三年(一三三六)の初期足利政権の幕府形成と目まぐるしい四年の激動が、その後の六〇年に及ぶ南北朝の動乱へ続いたのである。
 武蔵国は守護の沿革(第一章第二節)でも述べたように、鎌倉幕府下では将軍御分国として事実上北条得宗家が支配していたから、多くの御家人は後醍醐天皇の討幕の初期段階では、幕府方の軍勢として組織され行動したことは間違いない。しかしながら、その後の幕府方劣勢が明らかになっていく過程で多くの諸国の御家人たちが討幕勢力に寝返っていく中、武蔵国の御家人は、鎌倉に近いという地理的な条件と鎌倉時代を通して将軍御分国という性格から、幕府離反の時期はかなり遅く、北条一門と滅亡をともにしたものも多かったと思われる。しかし、江戸氏やその庶流で港区域を所領とする金杉氏は、南北朝時代を通じて文書史料にも活動の証拠が残されているからすべてが鎌倉幕府と滅亡をともにしたわけではない。