後醍醐側の部将新田義貞は、建武政権下で左衛門佐(さえもんのすけ)・佐兵衛督(さひょうえのかみ)・左近衛中将(さこんえのちゅうじょう)正四位下と出世し、播磨守・越後守・上野守となっている。建武政権に背いた足利尊氏と戦い、やがて延元三年(一三三八)、越前守護斯波高経と戦って、同国藤島灯明寺畷(とうみょうじなわて)(現在の福井市)で討死した。それを契機として、足利尊氏は北朝から征夷大将軍に任じられた。
新田義貞は、戦前は、後醍醐天皇に忠誠を尽くして討死した忠臣として顕彰されたが、戦後は一転して、新田氏の源氏一門内の門閥(もんばつ)も足利一門という認識に過ぎないとされ、軍事力や人望など力不足で到底尊氏に太刀打ちできる人物ではなかったという低い評価になった。時代による歴史上の人物の評価の変化は、足利尊氏や豊臣秀吉にも顕著にみられる現象であるが、新田義貞に関しては戦前の皇国史観に利用されたことへの反発という理由もあるだろう。新田氏は、源義家の三男義国の長子義重から興った名門で、次子義康から続く足利氏の同族である。新田・足利両家の家紋を見ると、新田氏は大中黒(おおなかぐろ)という太い横線一本、足利氏は二つ引き両で、新田義重と足利義康の長子と次氏の関係性が一目瞭然に表現されている家紋となっている。平安時代に遡る家紋は数少ないが、武田の割菱(わりびし)、佐竹の扇に日の丸、佐々木の四ツ目結などみなシンプルな図柄である。これは戦場での敵味方識別標識という役割からも当然だったと思われる。当時の武士は、大袖と冑(かぶと)の後方に袖験(そでじるし)・笠験(かさじるし)として布に描いた家紋をつけて敵味方の識別としたから、技巧的な図柄が登場するのはずっと後世になってからである。さて、新田氏はその祖義重が頼朝挙兵当時北関東に大きな勢力を持っており、頼朝に合流せず独自の行動をとっていたため敵対的であるとみられ、幕府成立後は頼朝に冷遇された。義重は平氏打倒の全国的な動きの中で、むしろ源氏の棟梁になろうとした可能性があったと思われる。これに対して足利氏は、義康の子義兼がすぐに頼朝の指揮下に入ったことが幸いし、後々北条氏とも縁戚関係を結んでいったので幕府内で優遇された。このような新田氏と足利氏の幕府成立の過程での行動の違いが、その後、幕府内での地位に差が開いていった理由であるといわれる。
しかし、一方で新田氏は上野国新田荘の本拠地だけでなく、越後国魚野川流域にも多くの一族庶子家を分出展開して武士団としての規模は大きい。新田義貞の弟義助は、脇屋という別家をたてているが、足利氏の方では尊氏の三代前で分割相続による庶子家の分出は停止している。新田義貞は、先祖が足利氏の兄の家柄という由緒と、鎌倉時代の政治的な展開の中で生じた地位の差によって対抗的な立場をとって南北朝の動乱に臨んだものと思われる。後醍醐は、武士団の規模や家柄から、楠木正成や結城宗広ではなく、新田義貞こそが足利に対抗し得る朝廷の上将軍にふさわしい存在と評価したものであろう。