合戦様式の変化

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 延元三年閏七月、新田義貞は、足利方の越前守護斯波高経と優勢に戦って圧迫しながら不期遭遇戦で討死をとげた。斯波方の藤島城を攻撃中の味方を督戦するため、義貞自ら五〇騎を率いて向かう途中、灯明寺畷で斯波方の歩射部隊と遭遇して討死したと『太平記』は伝えている。鎌倉末期から南北朝初期を契機に、従来の合戦の様相が変化してきていることが明らかである。平安中期以降、新たな社会階級として登場した武士の戦いの基本型は弓射騎兵の一騎打ちであり、騎乗して弓を射ることを戦技として習得しており、式正(しきしょう)の鎧とも呼ばれた大鎧は、騎乗で弓射するために工夫された機能を持つ鎧であった。また、刀剣は古代の直刀から、騎乗位置から振るうのに適した腰反りの強い湾刀様式の太刀に変化したことも同様で、武器の様式もその時代の合戦の様相を反映しているものなのである。南北朝期に入ると、馬に乗らない徒歩(かち)立ちの多数の兵による歩射部隊が登場し、精密な射術を要しない集団による斉射が威力を発揮するようになる。また、僧兵の武器として知られる薙刀に加えて、鑓(やり)が出現して次第に薙刀に代わって主流となっていく。来国俊(らいくにとし)(年紀銘のあるもので、一二七八~一三二四年)のような山城来派屈指の名工の鑓の作品も残されているので、従来言われていたより若干時代を遡って鑓の登場を考えるべきだろう。鑓による負傷を明記する奥州での軍忠状が鎌倉末期に残されていることは知られていて、鎌倉時代末期には合戦で鑓が使用されるようになっていたことは疑いない。しかし、刀剣研究の分野では、南北朝期の「菊池千本鑓」と称する肥後延寿鍛冶の鑓が菊池武重によって戦いに用いられるようになって、延寿鍛冶が鑓を創出したとされている。肥後延寿鍛冶は、蒙古襲来に際して山城来派の刀工の一部が鎮西に移住したもので、来国村を祖としている。来国俊の明確な鑓に比べると、菊池千本鑓の遺品は鵜の首造りの短刀のようで、鑓のルーツと判断するのは今後の検討が必要だろう。平安時代と同じく、鑓という鎌倉末期に出現した新兵器もまた都から広まったと考えたほうが自然ではないだろうか。この時期から合戦における歩卒の参加が急激に増加し、太刀も馬上からの片手打ちより、徒歩で両手で柄を握って切り結ぶ斬撃戦が増加したことを反映して、刀剣の反りも腰反りから反りの中心が刀身の中央に移る鳥居反りに変化する傾向が明らかとなる。