二通の着到状

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 南朝の有力部将であった新田義貞が、建武五年に越前で討死したのを機に、足利尊氏が征夷大将軍になり、このころから南朝は頽勢(たいせい)に向かうが、観応擾乱で足利方が分裂して争ったことが南朝の延命の一因となった。第二次観応擾乱で直義急死の後、直義党の守護級有力部将の多数が南朝側に味方して鎌倉・京都を一時的に占拠することに成功したこともあった。また、新田義宗・義興兄弟は、征夷大将軍宗良(むねよし)親王とともに武蔵野合戦という広範囲にわたった一連の合戦で尊氏と戦って、義興は一時的に鎌倉を占領することに成功した。武蔵国は守護の項(第一章第二節)でも述べたように、尊氏、次いで高師直が支配していたため、南北両軍に分かれて戦ったとはいえ、武蔵国の武士の多くは高師直軍に従って戦ったと思われる。その活躍は『太平記』などには記されているのだが、港区域を本領とする武士に限ってみると、彼らの合戦での活躍を記した軍忠状は残されていない。南北朝期に江戸氏が残した着到状は次のように二通確認できる。
 
  着到 武州江戸次郎太郎重通代子息弥六重村
  右、自去二月十七日墨田馳参、至于三月十八日、警固令勤仕候畢、仍着到如件、
     貞和三年三月廿四日  承了(花押影)(武蔵守護代薬師寺公義)
  着到 江戸宮内少輔房重代同六郎四郎高泰
  右、入間河御陣警固事、為二番衆自今月一日至于同晦日令勤仕候畢、仍着到如件、
     延文元年九月日  
                承了(花押)(高坂氏重)
                    (水戸彰考館所蔵『古簡雑纂』五)
 
 一通目は貞和三年(一三四七)の江戸重通代官の子息重村の着到状で、武蔵国隅田へ警固のため参陣し一か月間勤務したことを承認してもらうために提出して証判を要求し、返却してもらったものである。二通目は延文元年(一三五六)の江戸房重代官の子息高泰の着到状で、初代鎌倉公方足利基氏が駐留中の入間川の陣で、やはり一か月の警固に従事したことを申告して証判を与えられたものである。証判者の二名は、薬師寺公義が当時武蔵守護代であった明証があるから、高坂氏重も延文元年当時、武蔵守護代であったとみられる。この二通の着到状から、江戸氏が貞和から延文年間にかけて足利方として行動していた事実が知られる。延文元年の着到状では、大将基氏の入間川在陣が長期化して、警固のため番衆が編成されて一か月交替で勤務していたことがわかる。観応擾乱の観応二年(一三五一)以来尊氏が二年近く関東に在陣して情勢安定に努めたが、基氏も尊氏帰洛後、鎌倉から入間川に移駐し長期に渡って在陣して入間川殿と称されたほどである。
 着到書き出しではあるが、一か月間の警固終了の確認を求めたものであるから、軍忠状と同じ役割を持つ覆勘着到状というべき機能を持つ文書である。覆勘状は守護が指揮下御家人の番役勤務修了に際して与える勤務修了証明書であるが、南北朝動乱のように戦乱が連続する状況の中で、勤務を終了した武士の側で内容を文書化して上申し、守護大将側に着到帳に記載してもらったうえで証判を加えてもらい、文書を返却してもらって双方の証拠とする手続きに変化したのである。鎌倉末期から、参陣に際して提出する着到状、合戦後に自らの負傷や敵に与えた打撃などの手柄を記述して提出する軍忠状なども同じ手続きであった。鎌倉時代の武士の戦功確認手続きは、「竹崎季長絵詞」や「蒙古襲来合戦絵巻」(図2-1-1)にみるように、武士本人が口頭申告して大将側の執筆(しゅひつ)という記録係が文書化し、証人の確認を経て大将である守護が、挙状または吹挙状と呼んだ推薦状を幕府侍所へ送付して恩賞沙汰の審議が行われたのである。しかし、蒙古襲来以降の鎌倉末期の幕府では、武士本人が作成する軍忠状の提出によって戦功の確認手続きが行われるようになる。すなわち、合戦後まもなく提出された軍忠状に記されている証人への文書による証言要請を含めて、本人の申告する軍忠状に記す負傷の状態や敵首の実検などの確認行為を経て、証判を与えて返却するが、大将側の実検帳にその内容を記録するのである。実検帳には分捕実検帳・疵実検帳などがあり、最大の勲功は本人の討死であったとされ、その場合は必ず遺児か後継者に恩賞が与えられた。
 

図2-1-1 蒙古襲来合戦絵巻(部分)
国立国会図書館デジタルコレクションから転載