南北朝時代に入ってもこのシステムは継受され、幕府軍が編成されるような大きな合戦が予想される場合は、幕府侍所(さむらいどころ)から足利尊氏か直義の名で軍勢催促の御教書が守護宛に発給され、守護所で守護代はその御教書を多数写して国内御家人に伝達する。受領した御家人の惣領は、庶子家に対して口頭か書状で軍勢催促する。庶子の兵を集めた惣領は、守護所または指定された場所へ武装して集合する。この時に提出されるのが着到状である。受理した守護側は、着到帳に記載したうえで、証判を施し提出者に返却する。事態が合戦に移行すると、合戦ごとに武士たちは、討死・手負いをはじめ自身が受けた損害や、敵首の分捕り、生け捕り、先駈けや敵旗の分捕に至るまで、敵に与えた打撃と戦果と思われる事項を列記した文書を軍忠状に記して提出する。この時に不可欠なのは、申告内容を証言してくれる合戦見知の証人名である。申告者の負傷や敵首の実検などを行って事実確認が終わると、分捕実検帳・疵実検帳などに記録され、軍忠状には証判が施されて提出者に返却されるのである。一回の合戦で恩賞に十分な軍忠がなかった場合は、武士はその後の合戦の軍忠を書き足してさらに軍忠状の提出を重ねていく。これが即時型軍忠状を連記した長文日記体の一括申請型軍忠状である。時間が経過しても双方に記録が残るシステムができていたのである。
「熊谷直経合戦手負注文」(図2-1-2)というのは、証判形式軍忠状の初見で、楠木正成の千早城を攻撃した幕府軍の武士として参戦した熊谷直経が、戦いの翌日に提出した軍忠状である。文書右下にある二つの花押は、この軍忠状の申告内容が事実かどうかの確認をするために熊谷の陣屋を訪ねて負傷箇所を確認した軍(いくさ)奉行人の二名である。若党の名前冒頭右側にある墨線は、合点という確認の墨引きで、負傷の程度が「深」と記入されている。彼らの作成している疵実検帳に記録したことであろう。石に当たったことを申請した三人目の軍忠申請は合点がなく、二人の軍奉行人には軍忠と認められなかったわけである。
軍忠の認定に不可欠な証人への事実確認も、守護側が軍忠申請者の申告する証人に内容を尋ねる問状を下し、起請の詞を記載させ内容に虚偽がないことを誓わせる請文を提出させている。証人からの確認が取れれば、申請された軍忠内容を推挙状に記載して幕府侍所へ送付し、幕府は御教書による感状を軍忠申請者に発給した後、恩賞給付の下文が将軍名で与えられるのである。竹崎季長のような例外もあるが、原則は現地の防衛にあたる御家人を六波羅や鎌倉に恩賞請求のために参訴することがないように、書面の審査だけで軍忠の申請から恩賞の給付までを実施できるようなシステムを整えていったのである。このようなシステムは、全国で合戦が恒常的した南北朝期に入ると、その必要性から継受されて初期足利政権の軍忠認定制度として整備されていった。軍勢を招集する幕府からの軍勢催促状の文言には、明確な幕府の意図が表現され、「国中御家人を相催」とあれば守護宛であり、単に「一族親類を相催」ことを命じるものは一般御家人惣領宛である。幕府の軍勢催促状の文言から受給者の軍勢催促権の範囲を知ることができる。また大将のもとに出頭した武士が提出する即時型着到状と、一回ごとの合戦の軍忠を即日申告する即時型軍忠状に証判するのは、守護・大将とは限らず軍奉行、守護代、日大将などその合戦の部隊指揮官すべてであるが、即時型軍忠状を連記して長期間の軍忠を一括申請する長文日記型軍忠状への証判者は、守護・国大将である。それをもとにして幕府恩賞方に軍忠の推挙状を作成して送るのも守護である。
次に、足利尊氏・直義兄弟の感状発給以前に守護が指揮下の武士に発給する感状があるが、推挙状発給者と感状発給者は、足利一門出身の諸将に集中しており、外様出身守護の発給がほとんどみられないが、その傾向が解消するのは一門上位の家格をもつ多くの守護家が直義党に味方した観応擾乱以後である。擾乱以前は、軍勢催促状の発給、一括型軍忠状への与判、幕府への軍忠推挙状の発給、感状の発給のほとんどすべてが、原則足利一門諸将に集中していることが明らかになっている。これら恩賞給付に関係する軍事関係文書の発給が、九州三守護家(大友・少弐・島津)と外様守護の一部を除いてほとんど足利一門出身守護大将に集中する傾向が顕著にみられることから、所領の安堵拡大欲求をもつ諸国御家人国人を、各地に分遣した鎌倉時代には無名の足利一門大将に将軍尊氏の恩賞給付の前提に関与させることで武士たちを掌握させた結果、南朝軍制圧に大きな成果を上げることに成功したのである。
図2-1-2 正慶2年閏2月27日付熊谷直経合戦手負注文(「熊谷家文書」)
山口県文書館所蔵